父と「田園に死す」
田園に死す/ 寺山修司を久方ぶりに観た。強烈な映画だ。しかしほとんど内容を忘れていた。15年以上は前のこととはいえ、2度も観たのに、どうかしている。
僕がぼやっとしているということもあるが、忘れたのには1つ理由がある。
2度目に観た時、それは休日の朝、自宅でだったのだけれど、父親が眠そうに出てきて、僕が観ている映像を見るなり「あぁぁ」と呻いた。そしてこう言った。「これはあの風景だ。子供の頃、かわいいなと思う子がいると、みんな売られていってしまう、あの風景だよ!」
雛壇が川を流れてくる、幻想的なシーンなのだけれど、青森出身の父には、リアルなものに映ったのだった。あまりに驚き、その言葉とその映像だけが頭に焼きついて、他は霞んでしまった。
後で知ったが、雛流(映像*)という行事があり、この光景はそれを連想させる。それがきっと父に故郷の風景を思い起こさせたのです。しかしそう分かっても、僕にはやはりとても幻想的なシーンに見えます。
「田園に死す」は全体として、青森の津軽を舞台とした幻想的な映画なのだけれど、その中でも特に幻想的と僕に思えた場面が父にはリアルだとすると、他はどうなのか?父親と一緒に観てみたい気もするが、何か怖い気もする。
他にも僕には分からず、父ならわかるシーンがまだまだありそうに思います。
(2018年8月にinstagram(philosophysflattail)に書いた記事を手直ししたものです)
*文中にリンクした映像
春を告げる和歌山 加太 淡島神社 雛流し ダイジェスト 女性主役のまつり 2016.3
(青森のものではありませんが、日本各地に、少しづつ形を変えて同じ風習があるようです。)