消滅という無関係化
そういえばカウンセリングを受け始めてからもう四年近く経っている。
その間おもに自分の心を守るために自分や世界について知るべきだと対処すべきだと感じていたことのほとんどを学んだり試してきた感覚がある。
特にここ半年話したり書いたりしたことを振り返ると、同じようなことばかりを感じ悩みそして答えてきたことがわかる。
そのように同じような自分ばかりに出会うからか、ある種の安心感やナルシシズムや嫌気が混じるとともに、少しずつ味気なく感じることが増えてきた。
今の自分には強い粘り気を感じる。自発的に大きく変わることはもうあまりないのだろうという予感が強くなりながら、そんな自分で社会に付き合っていくことに受け入れないまでも諦めるそんな時間が過ぎていく。これが精神医学、精神分析の目指すところの治療後の世界なのかもしれない。
穏やかな消滅願望と日常生活の中で感じる乖離した感覚を無くすことを諦めるようになった。
私のなかに乖離感覚がどう生まれたのかはよくわからないけれど、消滅願望についてはわかりやすいきっかけがあったからというよりも物心ついた頃から何かしらの形で潜在し準備がなく少しずつ形があらわれたといったようなものだと思う。
これまでの人生の折に触れてどうにかして無くせないかと試行錯誤してきたけれど、それは理由なくやってきて理由なく消えていくただの欲求だということがわかるばかりだった。
もちろんこういった感傷は何かしらのきっかけとなることがあったためといえるかもしれないが、そのきっかけが訪れてしまった人は事後にどうすればいいというのだろう。過去を過去の捉え方を変えられるのは正しいが、変える程度身体を変化する程度には粘性がある。強い粘り気を感じ続けた後に何ができるというのだろう。
金原ひとみさんの『ミーツ・ザ・ワールド』に、世界から消えることを運命付けられているかのような形で望むライというキャラクターがいる。作中のラストでライは消えてしまう。
私はこのラストをどう捉えればいいのかがいまだにわからない。
私たちは消滅願望を前にするとき強く戸惑う。友達が持っていた場合は消えないでほしいと感じるし時には伝えることもある。その際消えなくて済むための理由と論理を無理やりにでも作る。しかしそれが特別根拠がないことを、少なくとも消滅する側からすると消滅した途端に失われる程度の理由でしかないことを私たちはおそらく知っている。
ところで、消滅はある関係がなくなるといえるような変容を伴うという意味で無関係化の一つであると言える。
私にとっての消滅願望はもう私を周りの何かに関係づけていたくないというように翻訳してもいいように感じる。
この無関係をその極値としてのあるような消滅をどのように捉えればいいのだろう。
さらにはこれまで学んできた福祉や医療や倫理などの智慧は結局どのように対処することができるのだろう。
何かを伝えることを意図した上で論じるような営み全般にいえることだろうが、今の時代の精神医学や福祉を中心としてあらゆる公的な決定は関係し続けることを基本的な軸として作られてきた。
たとえば社会適応してもらうこと、生きてもらうこと、人間であること、それらに関わる学問や表現のほとんどがこの関係を志向するものであって無関係は主に関係に対するネガとして論じられてきた。(安定と不安定という概念も扱われ方は近い)
少なくとも20世紀後半から特に宗教や性や科学を中心に社会には、静的動的問わずシステムがあることを指摘する言葉を大量に人類は獲得した。これらの言説の元は関係することそれ自体であるともいえる。関係からの逃れがたさが人の言葉に溢れている。
(無関係になっていく人に対しての精神医学的な声がけのような文章を過去に書いたことがあり、私のnoteの文章の中では評価されている。
そのような文章や評価に対して感じている強い違和感について今回の文章では書きたい。)
ただ依然として無関係に在ることそれ自体について語ることのできる言葉があまりにも用意されていない。さらにはある種の関係を一時的に持つ伝えるという営みにおいてどう在るのがいいのかについての言葉がない。
ミーツ・ザ・ワールドのライを前にした時に伝えられる言葉はあまりにもない。
私を含めて社会にいるほとんどの人は関係思考の言葉振る舞いに揉まれた結果、無関係化への衝動に際すると、関係化に対する対として捉えた上である程度だけ受け止め考え表現するというやり方を取るほかないということにただ落ち着いているだけなのだろう。
もちろんその落ち着きは理性に裏付けられているけれど理性は安定志向に浸されやすいのであって安定には理性には理由がない。
このようなことを感じているからか、
福祉や医療や倫理を唱える人、how toやライフハック的なものを垂れ流す人、剃髪に至らない短髪のマッチョイズムな人を前にするとき、
たまにどうしてこのことを気にせずに済んでいられるのだろう、どうしてそんなことばかりをいまだに気にしていられるだろうという怒り未満の情動に襲われる。遣り場がない。私の場合はこういった感覚は乖離していないものに対する乖離感につながっているようにも感じる。またこういった感覚と無関係に乖離感を感じる部分もあるのかもしれない。(そういえば周りだけでなく自分の書いている文章に対してですら自分と乖離している感覚が強い)
金原ひとみさんのエッセイ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』に描かれているように、私はどうして理性を失ってしまうばかりなのだろうと感じる。それに何よりもどうして理性を失いすぎることもないのだろう。制服を着こなせたら楽なのに、着こなせないことを示し続けられたら楽なのに。
無関係であれるならばできる限り無関係でありたいのに関係してしまうことを江國香織さんが使う淋しいに紐づけて思い出す。
これまで無関係のままに関係するといえるような一見矛盾したことを探ってきたし、矛盾して在ることが生物なのだと学んできた。ただドゥルーズの自○だったりニーチェが晩年に気が狂ったらしいことがふと頭を過ぎる。清々しさと苦痛がないまぜになった感覚になったり別の次元にある何かを想像しようとする時もある。やはり何もわからないしわかったような気にすら居させてはくれない。反復されない軌跡をなぞって翻訳する作業を反復する。
主な参考
金原ひとみ 『ミーツ・ザ・ワールド』『パリの砂漠、東京の蜃気楼』
終極の語彙のなさの終極味
書店に行くと、今どういった考えが必要とされているかがわかる。
例えば、新書のコーナーにいってみるとわかりやすいが、正しさが氾濫した中でどのように心を豊かに保つのかというようなテーマの本が多いように思う。
実際、思想・哲学に関連する倫理を説く本の多くは、信仰なしに論理的に導くこととして、
調和は長続きせず答えのないことが答えで問いがもたらされるのを待ち受けること、その結果として適度に生き延びるというようなことを暫定的な答えとしているように感じる。
諦めという受動性と積極性の両面を強調し、新しいことに出会うことと生活を両立させることを強調している。
これはある種終極の語彙を持たず暫定解を出していくプロセスそれ自体を指す。そのシステム性や包括性のため、思想の中でもかなり多くの思考や倫理を飲み込んでいく力を持つ。
そのため、最近の倫理についての次の語彙はそれを具体的な生活(料理やビジネスなど)に落とし込むといった粒度の小さいものばかりになってきたように思う。
(こういった粒度が小さくなっていく傾向はあらゆる分野で進んでいるように感じる。科学研究でも破壊的研究が生まれにくくなったというような報告があるらしい。)
その結果、粒度の小さいものに働くような美的感覚、つまり日常的な美的感覚を刺激するような志向性が強くなったが、おそらく粒度の大きい秩序的なものに対するような美的感覚を刺激しにくくなったのが現在だと言える。
だがそれでも依然として良くも悪くも私たちは小さいものへ大きいものへ向かう美的感覚のそれぞれに突き動かされているように見えるかたちで生き続けている。
私は粒度の大きいものへの美的感覚を絶対化や信仰化することを避けながら、粒度の小さいものと大きいものに向かう美的感覚の両方を、さらにはそれらを掛け合わせるような何かを根源的なところで強く必要としているから、生きていくハードルが高いことが多いのだと思う。
他の人との乖離や消滅願望がどうしてなのか考えてみると自分の美的感覚のようなものも関係しているようにも思う。
それは美という言葉が想起するような特別理念的なものとしてではなく日常的振る舞いとしてあらわれてしまう。
正しさが氾濫しその効力が分散し行き着いたエンドレスダンス的小さい日常の中で正しさに潜在する美的感覚が残り続けて刺激を求め暴れ続けて身体を出ようとする、というのが私たちの中の少なくない人が感じることの実情だと感じる。
だからなのか、なんかもういいやと話を切り上げて、音楽を止めたり選び直してもう一度聴くような振る舞いを中毒的に高まっていき、そのように問いによって問題はズレていく。
P.S.
前半について
現在の人類学や哲学領域的に捉えると、システム外のもの(無関係)をシステム内の捉え方(関係視点の無関係)とは別の視点で捉えた上で、システムの言葉に侵された人はどうすればいいのかということとも言えます。相関の外を獲得することをポジティヴに描くと同時に相関の檻に閉じ込められた人を忘れないことが必要だと感じます。
しかし、相関の檻に閉じ込められた人の立場に立つことは、マジョリティの立場に立つこと超越を作り上げてしまうことと重なりやすく、または重なることを必要とするものであり、注意も必要です。
後半について
主観的な終極性、つまり味気なさについて書きました。そのうえでいかにして乗り越えるかというとを事後的に考えると、やはり一つのものを徹底的に煮詰めること、幅広く新書を読むみたいなことを通り過ぎること、ノリが悪くなることなのかもしれないと考えています。結局は美的感覚云々について述べるのではなく美的感覚に飲み込まれると同時に過剰に言語を大事にすること。
全体として
今回は個人単位の話に終始していましたが、社会単位の話、つまり、社会や世界を維持していくことを前提とした上で無関係をどのように入れ込むのかということが今世紀に問われる最も難しい問いのように感じます。一生をかけて考えていくテーマであって、今の自分に言えることはとても少ないです。
余談ですが、書いた後に千葉雅也さんの影響を強く受けているのが出ている文章だと感じました。また、金原ひとみさんのエッセイで描かれた感じ方や適応行動といったもろもろの細部が私と近い部分が多くて信頼と恐ろしさを混ぜ合わせたような感情になるためお守りとして常備しています。