遍いていたはずの危険信号的、遍いたことになるゲゲゲ的
いつもより人が多い。それにコスプレをしている人をたくさんみかける。黄色と黒の半纏なのかベストなのかを着ていたり、片目だけ覗く銀色の髪の人たち、赤色の吊りスカートをきた女の子、頭に付けた目玉、みたいなものがたくさん流れる。
いつもだったらそんなに人がいないお店が並んでいたり、黄色と黒の上りが立ち上っていたり、そこまで社交的でもなさそうな日本料理屋の主人が黄色と黒色の半纏を来て、人を呼び込もうとしていたりする。
そういえばここはゲゲゲのまちだったかと思わされた。これまでにも時々こういう祭りがあることにはあったが、今日はあまりにも人が多かった。
黄色と黒色が目に入ってくる。
スタンプラリーがあるのか人が並んでおりそこに並んでいる人の黄色と黒色の半纏、その行列を整えるためのコーンとバーとチェーンの黄色と黒色、黄色を基調とし黒い文字の入ったのぼり、黒色が地で黄色が図の商店街の看板、配られる黄色の風船、ドトールやドンキの看板、お店の入り口の段差にある黄色と黒色のテープ、点字ブロックを覆う黒色のテープ、黄色と黒の縞々のマフラー、黄色の線が入ったマフラー。
もはやゲゲゲモチーフのものか、危険を知らせるものなのか、ドトールモチーフのものなのか、もしくはそれらとまったく関係のないものなのか。よくわからずにそれらはただ入ってくる。
このように、色彩というあまりにも即物的なことによって、これまでゲゲゲ的なものとしてみていなかったものが知覚されて、さらにはゲゲゲ的なものとして認識されたりもした。
ところで、そもそもゲゲゲ的とは何なのだろうか。
これまでそこまでゲゲゲの鬼太郎を読んだり見たりしてこなかったためか、私はそれらを参照できない。
そのため、コスプレ的な黄色と黒の半纏をみて、こういう感じがゲゲゲの鬼太郎なのかというヒントを経ているし、もちろんどこかで鬼太郎を見ているはずだからある程度ゲゲゲの鬼太郎なるもののイメージをもっているし、すくなくともゲゲゲ的なイメージは持つことができている。
ゲゲゲの鬼太郎は黄色と黒色のマフラーをしていたのだろうか、わからないけれど、なんとなくしているような気もする。わからないのにわからないなりの確信をもっている。
また、半纏にしてもどういう縞模様だったら鬼太郎で、どういう縞模様じゃなかったらゲゲゲの鬼太郎、もしくはゲゲゲ的なのかみたいなことが気になってくる。
こういうものは原作とされているものがある以上は、ある程度の客観的な事実性みたいなものは得ることができるかもしれないが、それよりも主観的な、「本当の○○」と「○○的」という差分はどこにあるのか、「〇〇的」はどの程度なのかが気になってくる。
たとえば、ゲゲゲのコスプレをしている人たちにとってはゲゲゲ的とは何を指しているのだろう。もしくは何も指していないのだろうか。さらにはある種のこだわりや重みのようなものはどのようにしてあるのか。
また、予感していることとして、明日からも、どこのまちにもあり、またいたるところに――そしておそらく多くは限りなく無造作に、または意図なくーーあるような、黄色と黒の色彩をもつコーンやテープや点字ブロックをみたり、ドトールやドンキを見たりするにつけ、少なくともある程度はゲゲゲ的だと感じてしまうだろう。(なお、踏切がゲゲゲ的に見えることは踏切の危険信号としての働きを弱めてしまい、危険かもしれない。)そのたびに、なんとなくだけれどこれまでと違ったゲゲゲ的な感覚、さらには分類がまた生まれてしまうのかもしれない。それはもはや「本当のゲゲゲ」と同じかどうかもよくわからないし、「本当のゲゲゲ」と大きく異なるゲゲゲ的なものになっているのかもしれない。
それは先輩とカラオケに行ってから、先輩の声で先輩が設定したキーによって曲を認識し、元の曲やキーがわからなくなるように。(もはやそれはわからないことすらわからないことも多い。また、カラオケの音源は元の音源とそもそも異なる。)
そういえば、目玉おやじのいくら丼というチラシを見た記憶があり、これからはいくらを目玉おやじ的に見てしまう可能性があるけれど、少なくとも今はいくらは目玉おやじではないと思っている。だけど、それはいつまでだろう。それに別にいくらが目玉おやじであっても、その逆であっても構わない。いや、構う構わないとは無関係にうまくいかないのかもしれない。
このような形で、ゲゲゲ的なものが遍いてしまうことそれ自体もおそろしく(メタ?)ゲゲゲ的に思えてくる。が、しかし、そのようなゲゲゲ的もどのようなものからそう感じているのだろうか。
推しに伴う言動には何かしらの形の一回性やアウラはあるんだと思っている。というよりも一回性がなければ推すことなどできないと思っている。
推しという親密性に近い感情は、一回性を何かしらの形でーーもちろん似たことは起きたとしても同じことは起きないーー反復することによっておそらく形成される。そして、それは既存のよく分からない顔を憑代にして形成・集約されるなどすることによって保たれたりもするが、それはもはや行方を元々知らなかったはずのよくわからない顔になっている。その集約が親密性だけではなく、あらゆる〇〇的を生み出していると捉えている。
その集約のされ方が、危険信号的なものをゲゲゲ的に思うことはあっても、ゲゲゲ的なものを危険信号的に思いにくいみたいな違いを少なくとも私にとってはなぜだか生んでいる。
他の聖地とかなり異なるのは、元々あったはずのもの、しかも、生活インフラの色が強いものが意味合いを変えてしまうことによって、既存の聖地以外のものを聖地に変えてしまうこと、さらにはそれが生活の必要上という理由だけでも存続してしまうことだろう。
影響元
福尾匠 『ひとごと:クリティカル・エッセイズ』
P.S.
後日、コスプレが減って、まちにある鬼太郎のポスターを見やすくなりました。
鬼太郎はマフラーをしていないことがわかりました。