見出し画像

会田誠と僕

まずもってこんなタイトルをつけて良いのかという感じではある。かたや日本現代美術の巨匠の会田誠先生。かたや何も成し遂げていないひとりの理系大学生の僕である。不快に思われたら大変申し訳ないです。すみません。

会田誠先生のこのツイートをみてこの記事を書こうかなと思った。今年の成人式というか20歳の集いに僕が出席する年だったし、今の僕なんて「客観的に恥ずかしくてひどい状態」でとってもこの言葉が僕に優しくしてくれたんです。時に悩み時にラディカルで時に甘美で時に優しくある会田誠先生の考えていること、といっても書籍とかツイッターとかに限りますが、そういったことを見たり読んだりするとこんなすごい人でもやっぱり僕と同じように悩む人間なんだなって思います。僕の心がすごく救われます。会田先生のツイートには何か優しく生意気で不完全な僕を優しく包んでくれる用空きがしています。
とりあえず今回は何の記事かというと、去年の頭くらいから会田先生のことを追いかけてきて頭の中で考えてきたこととかが溜まってきたので書きます、っていうような具合です。拙い文章ですが最後まで読んでいただけるとうれしく今後の執筆の励みになります。

かくいう僕は今年は21になります。2023年もちゃくをよろしくお願いします。

無計画に参拝しようとして人の波に敗北を喫した1月2日の明治神宮
カメラ始めたばかりなのに暗い写真が趣味なので真っ暗
カメラうまくなりたい

この記事のタイトルに冠した会田誠。何で会田誠先生なのかというと、会田先生の追っかけのようなファンのような感じにこの一年くらいでなってしまったから。じわじわと現代美術にはまり始めていていろいろ彫っていくうちに会田先生にであってしまいました。ですが、もう1人僕には大好きな美術家がいる。岡本太郎です。実は芸術が好きになっていったのは岡本太郎が入り口でした。彼は今生きている会田先生とは違って僕がこの世の中に生まれる前に亡くなっているが、共通点がある。お二方はどちらも美術家であるが僕はふたりの書く文章のファンであるということです。ふたりの作風は方向性は違えどひとによって好き嫌いがある作風で、特に会田先生のものは拒絶反応を起こしてしまう人も多く作品を展示した美術館にクレームが来ることは彼の創作によくつきまとうものになっている。

僕はとにかく会田先生の文章、彼の考えていることが素直に表されている文章が好きだ。その「好き」という言葉では一言で表すには少し言葉足らずだと思う。その文章の内容も寄与しているに違いないが、主には文章から分かる先生の考える姿勢だ。答えがあるのか無いのかも分からない、自身のバックグラウンドからなるジレンマ的な部分といまの「日本」についての問いと分析をまっすぐに考えていられていつも新しい視座を与えてくださります。その点が天才と言われるゆえんなのでしょうか。そして愚直な説明と創作をする姿勢に惚れる。去年の夏に出版された会田誠『性と芸術』の前半部はまさにインターネットで物議を醸した作品「犬」シリーズについてていねいで言葉を尽くした説明である。また巨大な壁画のような細かく尋常ではない量の書き込みがある代表的な作品もあり、その職人的忍耐は会田先生の代名詞になっているように思える。

『性と芸術』はとてもたくさん考えられて書かれているだろう本なのだが(そらそう。エラそうなこと言うな)、この本を含めた先生の文章はどこか自分に自信が無く「こんな僕が…」みたいなテンションを感じる。この雰囲気は他の会田先生のエッセーに特に盛り込まれているような気がしています。なんだか分からないけど先生の文章を読んでこんな僕は「こんな天才的な絵描きの先生もやっぱりとても悩んで悩んでいるんだな」って思って自分の事を責めるを、悩むのはしょうがないんだからもっともっと考えて行こう。という風にポジティブ、前向きな気持ちになる事ができるんです。僕の読んだ所感で何の根拠もないし、なんだか会田先生を僕のようなごく一般的な人間の次元まで下ろしてきているようでとても胸を張って書いて良さそうなものではないですが。

そこだけじゃなくて実はもうちょっと他に先生と似ているところがあったりしてそれも何か親近感のような尊敬のようなこの不思議な気持ちに寄与しているんではないかなあと思っています。会田先生の母親はフェミニストだったと書いていると記憶しています。両親がソフト左翼的な家族に生まれている。僕の母もそんな感じ。落ち着きがなく今でいうADHDだったと自称している。僕もまあ実際そんなところだ。会田先生は今の僕くらいであるとか高校生くらいの時に家庭環境の反動で小林秀雄の熱心な読者、国粋主義的になっているが、もしかしてそれが僕の宮台真司に傾倒している時期と重なるのかなと思ったり。宮台真司が国粋主義的かどうかは置いておいて。

というわけでここまではなんか似たような感じなのである。会田先生の場合は父親が学者ということだったが、僕の母親が外大の修士課程に進学していたことを最近知り、このことも何か似ているところがありそうな気もしなくはない。結局のところ学位は取ってないらしいが。僕の家庭が中流のプチ左派みたいな感じという雰囲気というのは伝わったと思う。日曜の朝はサンデーモーニングを見て育った。

まあとは言っても結局のところ、全部が全部一緒なわけがなくて、そもそも会田先生のような才能は全くないし(気づいていないだけかもしれない。ポジティブ)、僕は理系の大学に現役で来ているわけだし、会田先生は浪人して東京藝大に行かれている。僕は芸術大学に行こうって一瞬思ったりもしなくはなかった。小中学生の頃絵はやっていたけど、高校生の時すでにブランクがあったし、絵を習ってその難しさとなかなかまっすぐな絵を描くのは難しいというのを知っていたことと時間がないだろうと思ったりもして、踏み出すことはできなかった。今思えばそこが最後の大きなチャンスだったには違いない。非常に悔やまれるところではある。この前Chim↑Pomの卯城さんに「ボクは理系大学生なんだけど何かしら芸術に関わってみたいんですよね」なんて言ってみたら「今じゃアウトサイダーはいっぱいいるし、その工学と組み合わせたら面白いんじゃないの」なんていうようなことを言われて少し励みになった。実際Chim↑Pomはエリイ以外芸大は出ていない。美学校には行っているけど。僕は無理に理系なネタに縛られることはないけどね。第一、Chim↑Pomの師匠に当たる会田先生も芸術大学の仕組みやその業界の構造に否定的な立場を取ることもあって、この学歴については一番なんとも言い難いところだが。結局のところ学歴コンプレックスみたなところは少しある。なんだかんだ芸術大学の修士に行こうかなんて考えたり考えなかったり(自分の未来にあまりにも無責任!)。それも通って学位を取るのにやっぱり意味あるのかないのか考えたり。実際僕のいる学部では修士に進むのがデフォルトなので専攻が違うだけでそこまで突飛ではないと思ってますが…。

Chim↑Pomの卯城さん稲岡さんが会場にいてた"Don't Follow the Wind 1/12"の時の記事です。

そう。坂口安吾賞を取ったときのインタビューで坂口安吾にエラそうではあるがと前置きをしてシンパシーを感じると言っている。言語化できないけれどなんかそうなんだよなあ。僕は会田誠にシンパシーを感じる。説明がしにくいんだけど。なんか同情してしまうというか。僕は僕を会田先生に投影しているというか、投影できてしまうというか。こんな浅はかな考えのやつに同情されても会田先生は困るというか怒るのだろうけど。いや、「ほらいったでしょ!こうなると感じ取っていた!」っていうのかな。わからないけど。

この記事の執筆が進行中の今日も会田先生のツイッターでぷち炎上していた。炎上というのには小規模だと思うが。内容は会田先生の作品をみていればその是非は先ず脇に置いておくにしても炎上していた内容はその趣旨は理解できるものであった。僕にとっては会田作品のまた別の見方があるしおもしろいなあなんて思っていたけど一般のひとにはやはり伝わらないようだ。それはそうだなと自省する。現代美術家なのだから、新しい少し未来の視座を僕たち一般の人たちに与えてくれるのが先生たちの仕事だ。現代美術家の発言はハイコンテキストで、大衆の社会通念を刺激して時には怒らせる。少し前まではその手立ては有効だったのかもしれないし、それが現代美術の役割だと思うのだが、トランプ以降の世界の2023年を生きる我々の現代美術の知識の無い人たちにはにはあまりにも刺激が強すぎるのかもしれない。会田先生と複数のアカウントのやりとりを見ていて悲しくて仕方が無かった。この世界ではバブルの中におのおのの世界を作るのが一番幸せかもしれない。それかまた、この世界に限界を感じる僕は、未熟のあまり現代美術の力の限界値を見誤っているかもしれない。僕が知らない大きく優しく僕らを包み込んでくれる力が現代美術には残されているのかもしれない。さらに勉強して主観的なボクの軸とその外部にある客観的な視座の二軸を先ず獲得せねば。まだ訓練が足りない。

この記事を書くにあたって会田誠『青春と変態』を読み返してみた。やっぱりいいな。高校生の悶々としたピュアな自分というもののと共存して、他人と比較した時に確実に「変態」的だと思うものを持っているアンバランスな感じがすごく普遍的で個人的で好きだ。僕個人的には日本の男子高校生の義務教育にすべきだと思う。内容は純粋な青春ありドロッとしたエロありで読者の頭を少しぐちゃぐちゃにしていくのだが、最後は雪原の白さに何か洗われるような、清々しい気持ちになれる(実際高校のスキー部の話なのだが)。会田先生の今の日本のピュアな部分をキュッと抜き出して、それを完璧なストーリーに映し出されていて、こういった仕事がすごいんだなあと改めて認識させられる(毎度のことだがお前は何もんなんだ偉そうすぎる)。いろいろなところで言われているが、会田誠の美術の要素を小説いキュッとまとめて抽出したような作品だ。この絶望が溢れる日本の中にも一糸の希望か、光か、また別の何かかわからないが、その表裏を見せてくださっているような。それは単に僕の思い違いか。ただし、会田誠の存在が私の存在の何か根源的なものに絡み合っているには違いない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?