【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(20)
●体からのサイン
元気になります、と宣言したものの、その後美咲の体調はいまひとつ冴えなかった。
雪洋が土曜日の午前診療をしている間に昼食の用意をしてみたが、いつも以上に疲労感がある。
食欲よりも睡眠欲の方が強い。
『少し調子が悪いので休みます』
雪洋宛のメモの筆跡が我ながら弱々しい。
ベッドに潜り込む。――至福の時。
疲れと意識が、心地よくベッドに吸い込まれていった。
美咲、と伺うような囁き声がした。
薄目を開けると、雪洋がのぞきこんでいる。
「どうしました?」
深く寝入った気がするがまだ眠い。
頭がぼんやりする。
寝起きの声で「ご心配なく」と応える。
「ご心配なくと言われても心配しますよ。美咲は無理をしますからね。こうやって訴え出る時はよっぽどの状態でしょう?」
「今日はそこまで切羽詰ってないです。なんとなくめまいがして、なんとなくしんどいだけです。本当になんとなくなんです。気のせいかも知れません」
「ふむ……。失礼」
雪洋が美咲の両頬を手のひらで包み、親指で下まぶたを下げた。赤みの強さで貧血具合を確認しているのだろう。
「会社でも階段とかしんどいけど、倒れるほどじゃないし、気合い入れたらキビキビ歩けそうな気もするし。でも横になりたくてしょうがないんです」
「『なんとなく』というのも体からの立派なサインですよ。横になりたいのは体が休みたがっているんです。足はどうですか?」
「なんとなくジンジンするような気が……しないでもないような……」
雪洋が足を診ると、一瞬の間をおいてうなるような声が漏れた。さっき美咲も見たが、パラパラと紫斑が出ていた。
「食欲は?」
「うーん……食べるより寝ていたいです」
「じゃあこのまま休みなさい」
雪洋が部屋を出たあと、美咲は「あーあ……」とため息をついて布団をかぶった。元気になるって決めたばかりなのに、早くもこのざまだ。
「でも今日のはこれでいいのよ」
なんとなく調子が悪い、ということを受け止めて、休息に励んだのだから。
健康な人に比べて疲れやすいのはしょうがない。それを自覚して、こうやって小さな不調を早め早めに消していくことが重要だ。
よしよし、と自分を褒めて、美咲は眠りに就いた。
その日は結局、夕飯時に起こされるまで眠っていた。
翌朝は、起き抜けからなぜかすでに疲れていた。寝すぎだろうかと思いながら重い体を起こし、杖を突いてリビングへ向かう。
足はもちろん、全身に疲労感と腫れぼったいような感覚があった。
「おはよう美咲。ぐっすり眠れましたか?」
「ぐっすり寝たはずなんですけど……」
あれだけ寝たのに寝足りないし、だるい。
リビングに来るだけですでに疲れ果てていた。
ちらっとソファーに目をやる。
その途端、もう誘惑に負けた。
ふらふらとソファーへ近寄り、横たわる途中ですでにまぶたは閉じている。
気持ちいい……また眠れそう……
近付いてくるかすかな足音と、床が軋む音に薄く目を開けると、雪洋がのぞき込んでいた。
「今日もなんとなく調子が悪いですか?」
返事をしようと思ったが、声を出す前にまぶたが閉じてしまった。
雪洋がパジャマの裾に手をかける。「ああ……」と嘆く声が聞こえた。紫斑は色あせることなく、かえって鮮やかさを増していた。
雪洋の足音が一旦離れる。
すぐに戻ってきて、腕に何かを巻かれた。
この感じは――血圧計か。
「106の67……。うーん、低いは低いんですが、美咲は元々血圧が低いですからねえ。異常値というほどではなさそうですが……」
判断つきかねるといった様子で雪洋がうなり、今度はパジャマの袖をまくる。肘にはコブがいくつもあった。そのコブに傷ができていて、所々カサブタが破れ、こじれている。
「体が悪い方に傾いていますね」
美咲はまぶたを勢いよく開けた。
「いいえ、私元気です」
「寝言は寝てから言いなさい。美咲、ステロイド少し増やしましょう」
ああもう、と無念の声が美咲の口から漏れる。
早く元気になって、ここを去らねばならないというのに。
しかし美咲の意気込みとは裏腹に、「なんとなく調子が悪い」状態は何日も続いた。
*
今朝も出勤前に雪洋とお約束の掛け合いだ。
休みを取ったらどうですか。
なるべく休むように努力してます。
努力じゃなくて休みなさい。
休めません。
休めないなら辞めたらどうですか――
雪洋はすぐ、仕事を辞めよと言う。
美咲にはどうしてもその踏ん切りがつかない。
「先生、世の中には私よりずっとひどい症状の人がいるんですよ? 私の症状なんてすごく軽い方なのに、会社辞めるなんて――」
雪洋が「美咲」と低い声で遮った。
「比べるのは他人ではなく、自分ですよ」
決して怒っているわけではない。
雪洋の目は、わかってください――そう言っているように見えた。
やがてあきらめたのか、ため息が漏れる。
「今日も遅くなるんですか?」
「はい、今大きな仕事を抱えてるので……。でも今日までです。明日は早く帰れますから。じゃあいってきます」
逃げるように背を向けると、腕を取られた。
「美咲、仕事のこと、本当に考えてみてくださいね」
「……遅れるからもう行きますね」
笑ってやんわり言うと、雪洋はためらいがちに手を放した。
「……いってらっしゃい」
表情は曇っている。
玄関のドアを閉め、体の痛みにぎこちなく歩いて車へ乗り込む。
「……どうしてこんなときに出てきたのよ」
パンツの裾をまくると、ふくらはぎにびっしりとひしめく真っ赤な斑点。――またひどくなった。ひとつひとつが大きく、突起して水泡にもなっている。
「先生が心配するじゃない」
紫斑に向かってぼやく。
「こんな盛大に出ちゃってさ。消えてほしいなら休めっていうんでしょ? わかってるわよ」
体からのサイン。
もう無理、疲れた、早く休んでと体が叫んでいる。
「わかってるから。でもあと少しだけ、今日だけ頑張って」
本当に、無理するのも今日だけだから――
*
枕元の時計は三時を指している。
珍しく夜中に目が覚めた。
……なぜ?
「う……くぅ……っ」
いきなり猛烈な腹痛に襲われ悶える。
これで目が覚めたのか。
続いて腹痛に比例した、猛烈な便意。
腹の中からゴロゴロゴロッと凄まじい速さで転がるような音が聞こえる。
なんで? 変な物食べたわけじゃないし。
おなか冷やした?
わけもわからず、痛い腹を抱えて一目散にトイレへ向かう。
杖を突く音、ドアを閉める音で雪洋を起こしてしまいそうだが、配慮している余裕もない。
慌てて便座へ座り込むと同時に、
「間に合った……」
心底安堵する。
見るまでもなく下痢だろう。
「はぁ、スッキリした……」
立ち上がったところですぐに第二波が来た。
「うそ、また?」
慌ててまた座る。すでに大量に出たはずなのに、また同等量を排泄する。げっそりして立ち上がると、軽くめまいを覚えた。
「あれ? 色……おかしい……?」
赤黒い気がする。しかもほとんど水のような状態で、便とは思い難い。
それに顔をしかめるほど、血なまぐさい。
水を流しているとすぐに、まさかの第三波が襲ってきた。いいかげんうんざりして座り込む。
「今度こそ……打ち止めでしょうね……」
立ち上がった美咲は、さきほどよりも強いめまいに襲われた。
しかも排泄物の赤みも尋常ではない。
さっきよりも鮮やか。
明らかに、血――
「……生理?」
そんなはずはない。時期が違いすぎる。
首をかしげながら水を流し、消臭スプレーを噴射していると、いよいよひどいめまいに襲われた。
力が入らない――
手から消臭スプレーの缶が抜け落ち、床に当たって甲高い音が響く。
早く部屋に戻ろうと、杖を持ってドアを開けたところで、
――だめだ――
本能的にわかった。
貧血で視界がかすみ始める。
頭がふらふらする。
美咲は慌ててある物を探した。
――あった、コールボタン。
「先生……」
かすんでゆく視界の中で、コールボタンを手探りで押す。
トイレから出たところで、美咲はいよいよ体をコントロールする力を失った。
ドタン、という音と振動。
杖が倒れる高い音。
それから――
廊下の冷たい床の感触を最後に、美咲は意識を失った。
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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