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「一日中書いて暮らしたい」はどうやら卒業

前は「一日中書いていたい」と思っていた。「創作だけに没頭して暮らせたらどれだけ幸せだろうか」と。今は――実家で両親と暮らすようになってからだろうか、ちょっと変わった。

家族が真ん中。

家族とすごすこと、家族の一員として家の仕事をすることの方が大切になった。

じゃあ書くことはどうでも良くなったのか? そうではない。「書くことと暮すことは、同列ではない」と思うようになった。書くことは、暮らすことの上に移動した。――上位だということではなくて。例えるなら、小学生のときに書いた感想文のような位置付け。

まず何かを体験すること。
それがあって感想文は書ける。
体験――つまり暮らしが基盤。日常、仕事、趣味。書くことはその上。まとめ的な。

なんだか当たり前のことを言っている気もするが、受け売りではなく自分自身で悟った、実感したということが大切。

第一、高齢者枠の親を働かせておいて、自分は部屋に閉じこもって一日中書くなんていうスタイルには罪悪感しかない。売れっ子でもあるまいし。罪悪感を覚えるような生き方は、したくない。

書くことをして楽しいはずなのに、なんだか集中できない。楽しくない。――なんて思うときは大概、私の中に罪悪感が漂っている。そういうときは書き続けたっていいものにはならない。だから「そうだ雪かきしよう」「庭の草取りしよう」「母の畑に行ってみよう」と、罪悪感を相殺する行動に切り替えることにした。気分がすっきりするし、仕事を覚えるし。

では書くことはいつやるのか?
これからは何時間も机にかじりついて書くことよりも、短時間でさっと書くスタイルにしたい。何をどう書くかを悩むのは、机にいなくたっていいわけで。家仕事をしながら「今日は何を書こうかな」と考えるのも、毎日春を感じるみたいで楽しいし。

まだまだ修行中の身ではあるが、noteでこの日記を書くようになってから、いくらか回転数が上がってきた気がする。この調子で、回転数を上げておくこと、話をまとめる力をつけておくことは、コツコツとやっていきたい。きっと日常で話すことにも役立つはずだから。

暮らすことを、意識しよう。

それは生きる力にも繋がる。父がやってきたことをそのまま引き継ぐのは難しいけど、いずれは私一人で暮らすことになるのだから、自分にできる形に仕立て直して。

ご近所付き合いだって、今の形があるのは母が築いてきたものだ。私が主になる頃にはご近所さんも世代がかわる。跡取りが帰ってこなければ空き家になる予定のご近所さんだっている。今のご近所さんたちとの楽園もいずれ変化する。将来の自分を意識して、楽園に新しい層を創り、整えていかないといけない。

それに将来母に何かあったとき、何か起こりそうなとき、しっかり対応したい。――父を救急車に乗せたあの日、まさかもう、父が死んでしまうなんて思わなかった。着替え中にみるみる足腰がおぼつかなくなった父の正面に立ち、大きな体を支えながらズボンを履かせてあげたあのとき――もう会えなくなるとわかっていたら、ぎゅっと父を抱きしめたかった。お父さんしっかり、大丈夫だよ、と。

父が倒れてから葬儀が終わるまで、たったの8日間。亡くなってからまだ17日――
私と母にとって、父の死は、まだあまりにショックが大きい。

でもだからこそ、家族が真ん中。
ひとつずつ、ひとつずつ、こなしながら暮らしていこう。



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