【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(25)
●退院前夜
新しく住むアパートも決まった。
新しい仕事も決まった。
荷物も大方運び入れた。
手元にあるのは、貴重品と必要最低限の日用品だけ。
明日、「退院」する。
雪洋と二人で過ごす生活も、これでおしまい。
明日からは一人でやっていく。
――何時だろうか。
美咲にしては珍しいことに、夜中に目が覚めた。
体調が安定してからは、痛みで目が覚めることなんて滅多になかったのだが。これが最後の夜と思っていたから、気が高ぶったのだろうか。
「最後……か」
体を起こして音もなくベッドから降りる。
足が床に着く時は、体重をかけずに、衝撃を与えないように、静かに。
こういう所作が、もういつの間にか身についていた。
大丈夫。
もう一人でもやっていける。
かすかにドアがノックされた。
静かに開いたドアから、雪洋が姿を見せる。
「――トイレですか?」
「いえ、……目が覚めちゃって。体も痛くないから嬉しくてウロウロと」
「調子に乗ってはいけませんよ」
はいはい、とベッドへ向かう。
その足取りは、痛みが一番強いはずの夜中でも、軽い。一年前と比べると、自分でも見違えるほど「普通」の歩き方だった。
「でもまあ、せっかくですから少し話しましょうか」
雪洋がベッドに上がって壁にもたれると、左隣をポンポンと叩いて美咲を呼んだ。
――美咲も、雪洋へ伝えたいことがある。
並んで座ると、二人で肩をくっつけた。
この期に及んで恥ずかしいとか照れくさいということはない。
それだけ今まで、いろんなことがあった。
それに明日からは別々に暮らすのだと思ったら、少しでも一緒にいたいという気持ちの方が勝った。
「もう退院ですか……。さすがに名残惜しいですねえ」
「はい。私も……本当はすごく寂しいです」
「だったらそんなに急いで出ていかなくてもいいのに」
ブツブツと言う雪洋の様子がおかしくて、思わず笑う。笑いが止むと、部屋に沈黙が漂った。
「本当に、そんなに急いで出ていかなくてもいいのに……」
繰り返す言葉は同じだが、さっきよりも哀愁の色が濃い。
「通院日には、必ず来るんですよ」
ステロイドの服用量はまだゼロではないが、1mgまで落ちた。今後も定期的に通院して、症状を観察しながら服用量を調節しなければならない。
「あの、先生……それなんですが……」
口ごもっていたが、意を決して顔を上げる。
「私、先生のところには通院しません」
唐突な話に、雪洋が言葉を失っている。
目を見開いて穴が開くほど美咲を凝視し、ようやく「は?」という少々間の抜けた、雪洋らしからぬ言葉が返ってきた。
「これからは瀬名先生の診察を受けます。……すみません、今日まで言い出せなくて」
「なぜそんなことを……! 大体瀬名先生が了承するはずがない!」
「いえ、私の案に全面的に協力するそうです。『雪洋にもそろそろ次の段階へ行ってもらいたい』って言ってました。私もそう思います」
瀬名の言葉を伝えると、雪洋は髪を掻き上げ、うなだれた。
「美咲はあの人の真意をわかっていません。それに美咲の案ってなんですか」
雪洋の声は心なしかいらついている。
「先生、私、先生の教えを守ってきちんと生活してみせます。一人でもちゃんと、体とうまく付き合っていきます。たまには調子悪いこともあるでしょうけど、悪いなら悪いなりの付き合い方をします。――この体は、パートナーですから」
強がりで言っているのではない。
一年かけて、自分の体を自分のものとして受け入れることができた。
「それがなぜ、通院拒否に繋がるんですか」
「先生から完全に離れたいんです。ちょこちょこ顔見てたら、甘えてしまいそうだから」
「たった月一回の通院ですよ?」
美咲は首を横に振った。
「先生、先生が私を救ってくれたこと、ちゃんと証明してみせますから」
――これが、私の決めた道。
薄暗い部屋の中でも、美咲の笑顔は真に明るかった。
「必ずまた先生に会いに来ます。きちんと一人で生きて、先生が救ってくれた私を見せに来ます。だからそれまで先生には会いません」
雪洋が無言で美咲を見つめた。
美咲は微笑んで、その視線を受け止める。
「これからの私を見ていてください。先生も前へ進んでください。だからもう、昔のことは――」
雪洋が指先で美咲の唇に軽く触れ、続きを言うことを阻んだ。ようやく笑ってくれた雪洋の目は、潤んでいるように見える。
「ありがとう。救われたのは、私の方です」
かすかに声を震わせて、美咲を抱きしめる。
強く、痛いほどに。
美咲も力の限り雪洋を抱きしめた。
このぬくもりを、匂いを、明日には手放してしまう。
名残惜しげに、腕をほどく。
互いの顔が、すぐそばにあった。
互いの唇が、すぐそこにあった。
静かに流れる夜の時の中で、二人は互いの唇を見つめていた。
雪洋の顔がゆっくりと近付く。
美咲の額に、雪洋の額がコツンと当たった。
「いつも、あなたの幸せを願っていますよ」
雪洋の言葉に、寂しさからか優しさからか涙が出そうになって、
「私も、先生の幸せを願っています」
そう応えるのがやっとだった。
「そうだ、これを……」
雪洋がスウェットパンツのポケットに手を入れる。
「まさか本当に美咲が起きているとは思いませんでしたが」
「なんですか?」
雪洋は「退院祝いです」とポケットから手を出した。
「ようやく美咲にぴったりの物が見つかりました。間に合ってよかった」
雪洋の手の中には、シルバーの指輪があった。
宝飾が一切ないシンプルなデザインの、螺旋状の指輪。
「普通の指輪だと指が腫れるし、切断されてしまいますからね」
雪洋の眉が軽く上がる。
苦い思い出も、今は無性に懐かしい。
「これは螺旋状で輪になっていないから、調節できていいんじゃないかと思って。でも違和感があったら、さっさと外してくださいよ」
「これ、私に……?」
「指輪したいって言ってたでしょう? 気に入ってもらえましたか」
「もちろんです! すごい……すごく嬉しいです」
「どの指にしますか?」
雪洋に左手を取られた。
左手というだけで胸が高鳴ったが、単に左手が取りやすかったのだろう、などとあれこれ胸の内で言い訳をする。
薬指がいい――なんて、言えるわけがない。
だからせめて、薬指に近い指にしたい。
「中指にします」
私のことは、二番目くらいに思ってくれれば、それでいい。
雪洋は軽く眉を上げて美咲を見つめると、中指に指輪を通した。
ずっとポケットに入っていた指輪に金属の冷たさはなく、代わりに雪洋の体温が移っていた。
「この指輪は退院祝いの他に、もうひとつ意味があります」
「なんですか?」
「私と美咲が繋がっているという印です。美咲の好きなように生きなさい。でも私はいつでもここにいますから。いつでも戻ってきていいんですよ。その印です」
感動して目を潤ませていると、やがて雪洋の愚痴が始まった。
「こうでもしないと、美咲は再診すっぽかして五年間行方を暗ますし、自分から退院するって言い張るし、なんの相談もなく通院先を勝手に変えてしまうし」
「先生もしかして根に持ってます?」
感動の涙も引っ込んでしまった。
「本当は鎖でもつけておきたいくらいですよ。何年も音信不通にだけはならないでくださいよ。たとえ瀬名先生のところへ行っても、美咲の主治医は私なんですから」
「はい、先生。指輪を見て、先生の今の言葉を思い出すようにします」
必ずですよ、と雪洋に念押しされる始末だ。
指輪をもらって浮かれたいところだが、そうもいかない。
「あとそれから……あの、先生の好きな人の件は、何か進展ありました? 今も変わらずお好きなんですよね」
これからのためにも区切りをつけたくて、改めて確認する。
「またその件ですか。そうですねぇ、さらに愛おしくなりましたかねぇ。人の欲というのは、どんなに押さえつけても増大してしまうものですね」
嬉しそうに笑う雪洋に、胸が痛い。
でも、これでいい。
「だったら、さっさと告白でもプロポーズでもしたらいいじゃないですか」
雪洋は何も言わずに、少し困ったような顔をした。
「あ、手を出しちゃいけない人でしたっけ……すみません。でも私、応援してますから! もし少しでも風向きが変わったら、絶対に迷わず突き進んでくださ――痛っ!」
話の途中で雪洋からデコピンを食らう。
「何すんですかっ」
「何も知らないくせに、あまり煽るんじゃありませんよ」
「だって私、先生には本当に幸せになってほしいんです!」
おでこを押さえながら訴える。
これは本心だ。
雪洋へは感謝してもしつくせない。
「私の幸せねえ」
膝に片肘を乗せて頬杖を突く。
他人事のように雪洋が漏らすのは、叶わぬ恋故のことか。
「普通のお医者さんとはそりゃちょっと違うけど、先生は素晴らしい人です。その方にも先生の良さが伝わるといいんだけど」
「心配しなくても、私の良さは十分伝わっています」
「なんだ良かった。相手の方も、先生のことご存知なんですね」
「……そろそろ寝ましょうか」
横になり、雪洋に夏掛けを掛けてもらう。
「おやすみなさい、先生」
「――おやすみ」
雪洋が部屋を出たあと、ベッドの中で美咲はこっそりと左手を持ち上げた。
中指には螺旋の指輪――雪洋と繋がっている証が、そこにあった。
明日からは一人。
でもこの指輪に、雪洋のぬくもりが宿っている。
大丈夫、もう一年前までとは違う。
白い道を歩いている。
明日から一人になっても、白い道を歩き続ける。
美咲は指輪に触れ、目を閉じた。
荷物は全部、車へ積んだ。
別れの時――
「元気で」
「はい。今まで本当に、ありがとうございました」
伝えたいことは、昨夜全部伝えた。
二人は互いに腕を伸ばし、互いを抱きしめた。
それはとても自然な行為だった。
医者と患者とか、男と女とか、そういう関係は最初から通り越していたから。
一年とちょっとの同居入院は、笑顔で退院を迎えた。
車から見えなくなるまで、雪洋はいつもの穏やかな笑みで見守っている。
美咲も、雪洋が見えなくなるまで明るい笑顔でいた。
角を曲がって姿が見えなくなっても笑顔でいたが、涙は勝手に流れ出ていた。
ここから先は
【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?