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父の最期に関わる選択と、コロナ禍での葬儀に他県の姉を呼ぶか否かの問題について、誰の気持ちで答えを出したか
今回もまた、前回と同じ理由で有料とさせていただきました。とても個人的なことで、表へ出しっぱなしにすると傷口がヒリヒリと痛みそうなこと。私たち家族にとって、とてもつらく、大切な出来事となったことです。
今回の内容は、父の最期に関わる選択――延命治療についてを問われたときのこと。それから、コロナ患者数が急増中の大都市圏に住む、姉や叔父叔母たちをどうすべきかという問題について。父の危篤時、そして葬儀に、姉たちを呼ぶべきか否か。
何が正解かわからない問題の答えを、私たち家族は、時間に迫られながら出さなければならなくなったのです。その問題の答えをどうやって導き出したか。誰の気持ちを優先したか。――そういうお話です。
*
父が救急搬送されたその日。とてもひどい脳梗塞だったため、母は医師から介護サービスの申請をすすめられるとともに、延命治療をどうするか考えておくよう言われていた。つまり、人工呼吸器を着けるか着けないか、心臓マッサージをするかしないか。
「心臓マッサージどうするかなんて聞くのがや。いや、わかるけどさ……。軽薄でもいいからオラだりが駆けつけるまでやっててければいいのに……」
かつては医療現場にいた母も、自分の夫の延命治療について問われるとかなり参っていた。
心臓マッサージと人工呼吸器。
いざというとき、するか、しないか。
どちらを選んでも、私たちが父を手にかけるようにしか思えない。
延命の選択があるのに「しない」とすれば、父の命を見捨てるかのようだ。しかし、なんとか生きてほしいと心臓マッサージをしても、ある時点で「もう結構です……」と告げなければならない。
人工呼吸器も同じ。脳も呼吸も止まったけど、心臓は生きている。機械で呼吸させれば、心臓だけは動き続ける。じゃあ着けてください、とした場合、「いつまで着けておくか」がいつかは問われてしまう。
まだ老人というには若い。だけど奇跡を期待できる年齢や肉体でもない。延命治療をした場合、いつかは私たちのタイミングで「もう結構です……」と言わなければならないのだ。
とても重くて、考えたくなくて。かと言ってないがしろにはできない、手に余る問題を背負う当事者の一人になってしまった。
私たちが、父の最期を決める――
こんな苦痛はない。
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