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物々交換から通貨が生まれた、のではない|経済の起原 1 勝手にライナーノーツ#1

世の中には、あまり知られていないけれど、実は面白いことがたくさんある。より多くの人がそれを知るだけで、社会はもっと面白くなるのでは?

日頃から感じていたこの考えを行動に移すために、
何かしらの「点」から、
自身が感じたこと、考えたことを言葉にして、
たくさんの「線」を作りたい。

勝手にライナーノーツと題して、一つの書籍を中心に、
学びのワクワクを、わかりやすく伝える」ため、
記述の正確さよりもそこからの脱線を楽しみながら、
書いていきます。
気になった方は是非、一次情報に触れてみてください!

第一弾は、こちらをpick up。

ふらっと立ち寄った書店で、タイトル、装丁、著者に惹かれて購入。社会学のみならず、文化人類学、哲学、経済学、言語学、歴史学など、ジャンルを越境して、一歩踏み込んだ考えを紡いだ内容で、とても面白かったです。

と同時に、私にはまだ全然難しい内容でした汗
前提知識を押さえておらず、羊の歩みでじっくり読みました。

でもその分、めちゃくちゃ面白い!
わからないことに囲まれるって幸せなことだな、としみじみ感じた次第です。

それでは早速本編へ!


物々交換から通貨ができた、という神話

『むかしむかし、人類は物々交換でやりとりしていた。それがめんどくさくなって、通貨を使ってより便利に取引するようになった。』

ってなんとなく思ってました。
でも、これは神話ではないか?とのこと。

商品交換は貨幣によって迂回された物々交換に過ぎないとする神話は、歴史的な事実としても、論理としても妥当ではない。

大澤真幸. 『クリティーク社会学 経済の起原』. 岩波書店. 2022年, 6p

たしかに、これまで学校やら何やらで歴史を学んでも、「かくかくしかじかで、物々交換から通貨が生まれたのであります」って説明、具体的に聞いたことないです。

この「物々交換→商品交換」という推論は、
現代人に受け入れやすい説明論理による過去の誤読、なのかもしれません。

じゃあ何なの?といえば、真逆なんだそうです。

物々交換は商品交換の一形態に過ぎず、むしろ先に「通貨」の概念が生まれたのでは、というのが著者の主張です。
そして、その根本にあるのは「贈与」ではないか、と。

いやあ、わからない!面白い!気になる!!

Canvaで「おもしろい!気になる!!おどろき発見!ワクワク知的興奮!明るい雰囲気、笑顔、贈与、アハ体験」と入力して生成。何回生成しても、ファンシーな球体が浮かぶ。。どの文字がそうさせてるのか。球体は、自然を感じて、ワクワクする気持ちになるから、とか?ふしぎ。。


仮に、根本が贈与であるなら、経済の起原をどのように紐解けるか?
それにあたって、本書は、2つの問いを探っていくこととなります。

  1. なぜ、人は贈与をするのか?(主に本書第3〜4章)

  2. 贈与が支配的な世の中から、いかにして、商品交換が支配的な世の中になるのか?(主に本書第2、5〜6章)

今回は1つ目の問いについて書きます。2つ目は後日(むずすぎて時間かかる…)。

贈与をするのは、「負債」を抱いているから

なぜ、人は贈与をするのか?
一言でいうとそれは、誰もが「負債」を抱いているから、だそうです。

贈与は、常にすでに負債に先取りされ、媒介されている。かくして、人は贈らざるをえないのだ。

大澤真幸. 『クリティーク社会学 経済の起原』. 岩波書店. 2022年, 121p

いや、別に私は誰からも借り入れしてないし、返すなんて約束してないよ?って思われるかもしれません。
確かに現代での負債は、主に「借入金」を指すことが多いですよね。

ですが、ここで言わんとする負債はもう少し広義で、私なりに意訳するなら、「受贈に対する返礼義務」です。

贈り物を受けたら(何かをしてくれたら)、直接的な金銭やモノでなくとも、法的義務はなくとも、何か返さなきゃ、ありがとうって言わなきゃ、ってほとんどの人が感じると思います。

その感覚こそが、ここでいうところの「負債」です。

マーケティングなどでよく出てくる「返報性の原理」と呼ばれるものもありますよね。あれに近いのかも。

「何か」を受け取ったら、「何か」をお返ししなきゃ。
これが人間一人ひとりに通底する感覚である。
そしてこの「何か」の送り主は、誰とも特定できない不定の他者、であると。

たとえ客観的には単独で行動しているように見えるときでも、人は、誰か不定の他者にやってもらっているかのように、他者に助けられているかのように感じるということを含意する。ということは、人間は、誰とも特定できない不定の他者に対して本源的に負債がある

大澤真幸. 『クリティーク社会学 経済の起原』. 岩波書店. 2022年, 120p

不定の他者と中動態

不定の他者とは、自身という主体の行為の中にあって、その制御を超えたところで生起する私ならざる者、のこと。

これ、本書では"中動態"という、能動でも受動でもない態を用いて説明されているのですが、短い文章でこれを表現することがとても難しいので、ここはイメージだけ。

日本語には中動態が多く残っている。自動詞のこと。
インド = ヨーロッパ語ではほとんど死滅している。
西洋哲学の始まりにも関連する重要概念らしい。

日本語で言えば、"自動詞"が中動態に当たります。
自動詞、習いましたねー、懐かしい。
例えば、「思われる」「降る」「なる」「生まれる」。
自発、受身、可能、尊敬、の4種類、でしたっけ。

何かを強く意識して行為するのではなく、自然とそうなってしまう、できてしまう、という類の行為。自身の行為であるのに、自身の制御外である(あるいは、制御する必要がない)。内なる不定の他者が、私に働きかけて行為してしまう。

あらゆる感情は、元をたどれば、すべてそうなのかもしれません。この歌のテーマもそういうことだったのかな?

中動態は、「(私が)Xをする」ということと、「(私が誰かに)Xをされる」という感覚が矛盾なく両立するということを教えてくれる。この両立を圧縮して、もっと分かりやすく言い換えてしまえば、「(私が他者に)Xしてもらう」ということである。このように、人間の行為は、他者への依存に対して、はじめから開かれた構造をもっているのだ。私が世界に対して何事かを行う主体であるということは、私が他者を経由してそれをしてもらう、させてもらうことである。
この他者への本源的な依存に、価値ある物を介在させれば、まさに、それが他者からの贈与になるのではないか。

大澤真幸. 『クリティーク社会学 経済の起原』. 岩波書店. 2022年, 120p

人は、その身体を経験の中心地としながら、不定の他者を通じて、本来的に他者へと開かれている。

だから、世界に、あなたに、何かを贈りたい、と感じる。
これは人としてとても自然なこと(ちなみにここで言及する"贈与"には、マイナスの贈与=略奪も含まれます)。

なるほどねえ。
にしても、そうだとして、人は生まれてから、いつどのように、なぜそう感じ始めるのだろうか。

それについて、ここからは私なりの推論強めで述べてみます。

すべては一つである

生成AIが興隆して人間はどうなるんだ系の話、良くありますよね。人間に残される仕事や特徴は何なのかと。
その一つとして、人間の無数のセンサーとそれからなる感覚、があると思っています。

人間や動物って、センサーの塊ですよね。
生まれた時から、母の手や声、音、光、におい、温もりに始まり、実に多くのことを、感じ続けます。言葉にならなくても感じている。

さらに人間は、ただ感じることを超えて、その一つ一つを手繰り寄せ、つなげて、意味を作りはじめる。まだ話せない赤ちゃんの頃から、そういうことをする。

その過程で、誰もが、
この世界は、自身の存在に関わらず、存在している(してきたし、していく)
それら全てが、自身の外から、あるいは内から、自身に働きかけてくる
それらのつながりの只中に、自身が存在している
と、無意識のうちに直観しているのではないだろうか?

様々なことを感じて、そこから「快/不快」が体内で生成される。その原理が、何かが外からもたらされたという感覚の原点であり、それこそが、不定の他者が立ち現れるメカニズムではないか。

かくして人は、生まれながらにして、「世界からの贈与」を受け取ってしまうのである。

なので、不定の他者は、今この瞬間の他者のみならず、これまでの文脈すべて、踏み込んで言えば、「この世界の全て」を意味するのではなかろうか。

人は、これまでの全てを背負って生まれている、というのは過言でも何でもなく、論理的に導かれる帰結である。そういったメカニズムを論理的に説こうとしたのが、スピノザだったのでは。彼の言う"神"とは、「この世界の全て」を指しており、日本で一般に想起される人格神ではないように思う。

この映画もそんな感覚をストレートにポップに描いた作品でしたね。

全ては、本質的に、つながっている。殺し合う野生動物も、大いなる「一つ」の中でぶつかり合っている。

しかし人間は、本質はそこにあると直観しつつも、言語の獲得によって、そこから離れていく。

すべては一つである、からの旅立ちと回帰

人間は、発話し始める頃から、意識的な編纂をし始める。
これが便利でもあり、やっかいでもある。往々にして人間は意識偏重になり、意識や言葉に囚われ、盲信し、あたかも自身が、様々なことを制御できていると錯覚し始める。

もともとの"つながり"を、区切りはじめる。

わたしたちは、「こちら」と「あちら」というふうに、世界を二分してとらえたい。〈人間〉と〈動物〉というふうに、くっきりと線引きができる世界としてとらえたいのである。逆にいえば、わたしたちは、本当は世界がそうではないことを、うすうす知っているからこそ、象徴的な境界線を目に見える形で確かめたがる。

白倉伸一郎. 『ヒーローと正義』. 岩波書店. 2004年, 53−54p

言葉や意識は、人間が人間らしく生きていく上で必要なことであり、使いようによっては素晴らしいものとなる。一方でそれは、生き物としての人間の豊かさを閉ざす可能性もある。

「あなたって、ロボットみたいよね」
「あなたって、動物みたいだね」

そのどちらを言われてもストレスを感じやすい。それは、自身がその狭間にいる半端な状態であることを潜在的に自覚しているために、確定しない立ち位置に苛立ちを覚えつつ、その一方で、その状態を肯定したい気持ちにも駆られ、一種のダブルバインドに陥っているから、なのかも。

だから、ロボだ動物だと言われたら、
「そうだ!」とも感じるし、
「そうではない!」とも感じて、
不安で、苛立ってしまう。

中動態や贈与の起原を見つめることで、
自身の「不定の他者」を、ちゃんと感じることができる。そのことを言葉や意識で、メタ的に捉えることができる。

はじまり、に戻ることができる。

そうすれば自然と、贈与をしたくなるのではないか。

何かと関わりたい、つながりたい。その気持ちの根っこは、こういったことなのかもしれません。

私も、他者から知恵その他を頂いたら、私なりに「次の誰か、何か、に贈与すること」こそが、贈り主への恩返しになる、と考えています。

必ずしも、贈与した主体への返報である必要はない。それはこの「全てはひとつながり」という感覚に近い気がしました。
あのマンガも、そういう話なんちゃうかな。タイトルのまんまですけれど。

ちなみに、先ほども補足した通り、
ここでの贈与は、必ずしもプラスであるとは限らず、マイナスの贈与もあります。人を憎んで暴力する、とかはその典型かも。

でもそれも含めて、もともと一つであったところに回帰したい、という生き物として自然で当然の在り方、なのかも。

逆に、
「感謝などのプラス贈与は積極的に行うべき」
「暴力や略奪などのマイナス贈与は避けるべき」
と考えるのも、人間ならでは、とも言えそう。

そこに、道徳や倫理、宗教、政治、経済などの人間らしい方法論が必要となる。

今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございました!気になった方もそうでない方も、是非本書を手に取ってみてください(案件ではありません!ホントに面白いですよ!)



余談)贈与と私とのつながり

贈与がどーしたこーした、に初めて出会ったのは、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』でした(たしか)。レヴィ・ストロースからなる人類学では、自身の常識の狭さに喝を入れられたと同時に、新しい世界が広がりました。

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