あつもりばっかりやってる人へ。
どうも。更新が久々になってしまいました。
世間を大いに騒がせているコロナウイルス。
そして緊急事態宣言発令による「おうち時間」によって、私たちが得られたものはなんでしょうか。
ズバリ、「アナログへの回帰」です。
リモートワークの社会人ないし学生は、会社や学校に行くこともなく、飲み会もない。家でいてもすることがない。そして政府から10万円が入るらしい。
時間とお金が余る。
時間とお金がある中、おうちで何をすればいいのか。
そうなると、趣味や自己投資にお金と時間を使い始める。
これを、私は「アナログへの回帰」と呼んでいます。
アナログとは、情報理論でデジタルの対義語で用いられますが、私の言うアナログは、「生命的で、有機的で、直接的で、でも曖昧な、最も人間らしい行動のこと」と定義したいです。
インスタは料理か筋トレ
インスタグラムのストーリーを見ていると、10回タップすれば料理の写真が筋トレの模様が映し出されます。
よっぽどやることがないのだろう。
と、私はごく他人事のように傍観していました。
しかし、日々を過ごしていると私もやることがないことに気がつきます(もちろん学業はする前提で)。
4月だけで、普段の読書量の4倍ほどをこなしていました。
むしろ、今まで何をして日々過ごしていたのだろうか。やはり飲みにばかり行っていたのだろうか。
そして私は、知らぬ間に「アナログへの道」を進んでいました。
レコードを買った。
レコードプレーヤーを買うはめになった。
コンビニ飯がサ○ウのご飯と卵に変わった。
カリンバというアフリカの楽器を買った。
散歩をするようになった。
DIYをしてみた。
YouTubeを始めた。
絵を描く回数が増えた。
家の前の公園で初めてと言っていいくらい遊んだ。
友人は、お香を手作りしていた。
別の友人は、コーヒーを挽き始めた。
これは、時間とお金がもたらしてくれた人間の快楽だと思うのです。
「やっぱ○○って、ええな。」
という言葉を、ひとりのおうち時間で何度呟いたことか。
路地は遊び場である
先日、ある事情で大津市の古民家のスケッチに出かけました。
15時ごろに地面に座ってスケッチを始めると、子どもたちの声が聞こえてきました。
振り返ると、細い路地の奥に見えたのは、2人の子どもと、そのお母さん、おばあちゃん、そして近所の友達であろう子ども2人、計6人。
たまに自転車が通るくらいの人どおりの路地で、6人はドッヂボールやかくれんぼをしていました。
うち1人は、自転車に乗る練習をしていました。
なんとも微笑ましく、そして懐かしかったのです。
途中でアイスクリームを食べたり、大泣きしだす子がいたり。
子どもの発達にはやはり、「そとあそび」や「他人との会話」、自転車の練習にみられる「危険と隣り合わせの挑戦」が大切なのだと感じました。
そして、これこそが、人間のアナログな原風景であると。
自分が知らぬ間におうちで行っていた快楽は、人間のあるべき姿だったのだと。
生命的で、有機的で、直接的で、でも曖昧な、最も人間らしい行動である、と。
人が成長できるのは、アナログを味わった時
緊急事態宣言が解除され始めました。
今まで通りの生活に戻る日も遠くありません。
人に会える(=飲みに行ける)ようになるのです。最高です。
しかし、この「おうち時間」によって得られたアナログな時間を、自分の成長時間として忘れてはいけないと思うのです。
「散歩とかしてたっけ?」とか、「あの面倒くさがりな俺が料理してるぜ!」とか、「コーヒーは豆から挽くべきっしょ!」とか。
このおうち生活になって改めて気づいたこと、そしてこのおうち生活のおかげで新たに始めたことがいくつかあるのではないでしょうか。
私はこの「アナログへの回帰」現象を、ありがたく受け止めています。
時間は、チャンスである。
何かきっかけを生むことのできる瞬間である。
自分を変えられるヒントが、常に潜んでいる。
ではまた。
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