『新型格差社会』(朝日新書)を読みました
『新型格差社会』という本を読みました。コロナ禍で日本における種々の格差が拡大しているらしい。
教育の観点からしても、幼い時から塾や私立学校に通える人とそうでない人、パソコンなどのIT機器や英語に触れる環境がある人とそうでない人で、格差がある。
そんな格差のある世の中だけど、自己責任論を押し通すのでなく、格差を認めてみんなで新しい社会を作っていこうよ、と言った感じの本でした。
なかなか面白かったです。確かに塾で働いていると、こんなこと言ったらアレですけど、生徒によってなんでこうも出来が違うのかなー、とか思っちゃうことありますもん。
勉強できる子には、自分が中学生の時こんなに頭使えなかったな、すごいな、と感心させられますし、そうでない子には、自分はつまずかなかったけど確かにこれって理解するの難しいよな、とか、一体どう世界を見ているんだ?と問いたくなることもあります。本当にまちまちです。
それが生まれ落ちた環境によって大きく左右されるというのは、確かに不公平な気がします。同じくらいの頭の"デキ"でも、かたや金銭的に余裕があり教育に投資できる家庭で、もう一方は反対に金銭的な余裕がなく教育に力をいれることができない家庭に育ったとして、裕福な家庭の子は良い高校、大学、企業へ進むことができ、その逆もしかりだとすると、明らかにアンフェアです。格差が現れています。
とはいえ、話はそこまで一般的に落とし込まれないのでは、とも思います。そもそも学力は、たくさんお金をかけて量をやらせればやった分だけ伸びる、というものではないと思っています。ある程度は上がるでしょうが、詰め込み教育には限界があります。どちらかといえば遺伝の方が大きいんじゃないか、なんて私なんかは思ってしまいます。経験論より観念論派です。
あとはそもそも、格差があるから"何"なのか。というところにも問題提起の余地があるかなと思います。
キーワードは"幸せ"です。極論、すさまじい極論を言うとすれば、境遇に格差があっても幸福度に相関がないなら良いのでは?と思ってしまいます。きっぱりとそう言い切るとなかなかの過激派になりますが、でもそうじゃないですか?裕福な家庭に育ち親が教育熱心で、小さい時から勉強漬け、良い中学、高校に入ったとしてもまだ勉強漬けで、他の楽しみは一切ない。反対に勉強はてんでダメでも毎日友達と夕暮れまで遊んで、楽しい青春を過ごす。結局大した高校、大学に行かなくても、それなりに楽しく暮らしている。どちらの方が"幸せ"でしょうか?とはいえこれも一概には言えません。
本書にはその点について、あるデータが掲載されていました。
「世帯収入と幸福度の相関関係を調べたさまざまな調査では、年収の高さと幸福度は比例します。ただし、年収が1000万円を超えるとそうではなくなるというのがおおよその結論です。〜(中略)〜年収が多くて幸福な人ももちろんいるでしょうが、一定水準を超えると、年収の多さと満足度に相関関係は見られなくなる、というのがこれらの調査の結論です。」(本文より)
文脈的には、「ある程度まで比例はするが、その程度を超えると関係しなくなる」といった内容です。私の所感としては、「額が大きくなれば比例しなくなるが、それまでは本当にちゃんと比例するのか?」です。そんなに単純に比例するんですかね??人間の人生ってそんなに科学的ではないと思うんですよ。データに関しても、「さまざまな調査」や「おおよその結論」といった濁し具合なので、実際よく分かりません。何なら"幸福"の定義なんて人それぞれ全然バラバラだろうに、統計的意味があるのでしょうか。、、、ま意味はあるでしょうけど。それがどういった意味を持ち、何を言う事ができるのかについては、考えなければいけないのではと思います。
とりあえず私の感想はそんな感じです。格差のあることについては、なるほどなと思いました。コロナ禍がその格差を浮き彫りにしていることも、確かな説得力がありました。その格差をどう埋めていくべきなのか、格差による不利益を被る人々をどう守っていくべきなのか、問題は深刻で、まだまだ考えていかなければと思います。先述の通り、塾に通ってくれている子どもたちの学力も千差万別です。もちろん差はあって当然なのですが、"格差"と言いたくなるような学力の幅の大きさがあり、どうしてだろうな、どうしたもんかな、と、よく考えてしまいます。そんな時にも、特に勉強の苦手な子に対して、どうしてこんなことも分からないんだ!と思わずに、その子の今日までの境遇に想いを馳せ、差のあることは当然なんだ、と考えられるようになっていきたいです。
この感想文を考えていたら昨日も投稿をサボってしまいました。笑
できれば毎日投稿したいですが、ただそれが自分のプレッシャーにならない程度に、やっていきたいです。
今日はこの辺で。おやすみなさい💤