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『翻訳教室 はじめの一歩』(鴻巣友季子・ちくま文庫)

NHKの「ようこそ先輩 課外授業」で2012年2月に放映されたものを基にして、翻訳家である著者が行った授業が、ここに再現されている。もちろん、背景や解説が加えられているが、子どもたちの様子が、臨場感を以て掲載されていて、実に微笑ましい。
 
だが、これは子どもたち云々という問題ではない。実に大人へ向けてのメッセージである。子どもたちの、既成概念に囚われない発想をここに示すことで、本書は、へたにただ暗記して英語を理解したかのように思いこんでいる大人たちに、一斉に反省を促すことになるものである。
 
世田谷区立赤堤小学校6年2組の子どもたちが、幾らかの準備を経て、ついにはシルヴァスタインの「The Missing Piece」を全訳してゆく、これが本書のメインである。私はもちろんこの邦訳を知っている。だが、現場の子どもたちは、それを知らない。だから自由な発想で、この本に向かう。もちろん英語の文法的なことは知らない。確かに英語教育は始まっており、小学校でも幾らかの学びはある。だがその後も、小学校では書くことは滞っているし、読解や訳というレベルにもならない。過去形も知らないという中で、絵本とはいえ、生の英語に立ち向かうのである。しかしだからこそ、より自由である。著者が働きかけて、翻訳の楽しさを教えられる中で、子どもたちはいくつかのグループとなって話し合いつつ、それぞれ見事にこの絵本を訳してゆく。その姿は、産婆法とも言われたソクラテスに導かれて数学でも哲学でもこなしてゆくようになることにも相当する。
 
実はこの「The Missing Piece」は、邦訳は1種類に限られている、特殊な事情にあるという。独占翻訳権を以て、他人が翻訳して発表することができないのである。しかし特別に、シルヴァスタインの遺族からこの授業のために許可を得たのだという。「これは、大変なことですよ」と著者が言う通りである。そして自分でも新訳してみたいわけで、「うらやましいです」とも言っている。
 
子どもたちの素晴らしい反応については、ここで明かすことはしないでおく。本書を微笑ましくお読み戴きたい。否、微笑ましいどころではなく、驚き、感心することだろう。この感性の豊かさに、心が洗われるのではないかと思う。私がそうだったように。
 
子ども向けの本ではない。子どもの世界を通じて、翻訳とは何か、という根本的なところを問いかけ、語る本である。大人向けに、社交辞令的に翻訳論を飾るのではない。翻訳の「こころ」が、たっぷりと、あけすけに語られていると見た。その意味で、これほど翻訳の本質に迫った語りもないような気がする。
 
もちろん、時折専門的な解説も加わる。私は気づいていても、それが「描出話法(自由間接話法)」という技法である、という名前は意識していなかった。かの絵本は、主語がitであった。三人称である。しかし子どもたちの中には、これを一人称のように訳すグループがあった。
 
著者が重んじるのは、「読むこと」である。本の文章は、読者の頭の中で、その姿や意味を変えてゆく。記憶の中でも読むのであり、それが、本を読むということについての真実を明らかにする。つまり私たちは、「本の内容を読み換えていく」ことをしているのである。「心のなかで書き換えていく」のである。
 
それだから、翻訳もまた、「これだけが正しい」というようなものもない。また、終わりのほうで詳述されているが、文化の異なる語の並びを、逐語訳にすることでは伝わらないものが確かにあることも認識させる。ところが日本では、逐語訳とまではゆかないまでも、訳者の解釈が入る訳を「意訳」と呼び、ともすればひとつ劣ったもののように扱い、考えていることが指摘される。しかし著者にしてみれば、どんな翻訳も、ある意味で正しいのである。事実、子どもたちのグループそれぞれの異なる訳について、ひとつも否定的な対応をしていない。みんな違って、みんないいのである。
 
英語のような巨大な市場をもつ言語も、用いる人が世界に一人しかいない言語も、著者はどちらにも等しいリスペクトを払う。だが、それこそが文化の本質であり、ただ、政治的・経済的な力と、へたに情報伝達技術の発達によつて、少数言語が消えてゆく羽目に陥るということになるのである。
 
日本人は、日本語ひとつで国内で生活できる。しかし一つの国の中に何百という言語が存在する国もある。公用語がいくつもある国もある。日本でもようやく、手話をひとつの言語として公用語のひとつとして扱う姿勢が見られるようになったが、「標準語」とも呼ばれ得るもの一つで通用する日本は、ある意味で幸運なのだという。しかし、その恵まれた状態の故に、他の文化をどう理解するか、という点において、どこか馴染まない柵のようなものがあるのかもしれない。
 
では、学習の上で問題点はどうなのか。著者はそこに「能動的に読む」という表現でひとつの見解を提示する。抽象的な言い方だが、「読む」ことの重要性への意識が低いことが非常に問題である、と訴える。「読まずに書く能力だけ上げることはできない」と言うのである。このとき、著者はやや地味な恰好ではあるが、重要な指摘をしている。「文章をロジカル(理論的)に読み、文章の進んでいく方向を見極め、構成を理解し、語調の変化などにも留意し、全体を眼下において取り組まなくてはなりません」と。
 
本書は2012年に、ちくまプリマー新書として発行されたものを、新たにちくま文庫として出されている。それは、コロナ禍の最初の時期である。有史以来初の「世界同時多発疫禍」である、とまで言っているが、それだからなお、世界の中で孤立してよいわけがない。「想像力の壁を越えようとする努力」が正に必要なのだ、と強く指摘する。この努力については、本書で幾度か強調されてきたことである。コロナ禍から学ぶことは、ここにもあったのである。

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