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イエスの洗礼から始まること

マルコ伝を読み始めている。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)というスタートにその名前はあるが、イエスその方は、まだ登場していない。
 
洗礼者ヨハネが最初に登場した。このヨハネは、極めて重要な存在であったことになる。このヨハネが予め提示されなければ、イエスを持ち出すことができなかったのである。ヨハネは人々によく知られていた、ということなのだろうか。ヨハネには、一定の尊敬が集まっていた、ということも想像される。
 
すでにヨハネが、自分の「後から来られる」(1:7)方について予告をしていた。その方には力があり、自分はその方のしもべ、あるいは奴隷にさえしてもらえる価値がないのだ、という。
 
その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。(1:9)
 
イエスの登場は、洗礼の場面であった。説教者は、この場面を本日のメッセージの中心とすることは当然であるが、ガリラヤやヨルダン川といった地名に立ち止まる。イスラエル、あるいはパレスチナと呼ぶべきかもしれないが、この地は古代から交通の要所として機能していた。しかも大国どうしがぶつかる場所であり、古くから戦場となることが多かったのだ。「文明の交差点」と呼ぶこともできるだろうか。いま現在も続くその争いは、近代戦となり、より被害を拡大することになるし、国際的な対立を煽る結果にもなる。私たちにとり対岸の火事でよいのかどうか、互いに議論しなければならないだろう。
 
さて、イエスが登場した。福音宣教のはじまり(1:14)に先立って、荒れ野でのサタンの試み(1:13)があることはまだよいのだが、それよりも先に、イエスの「洗礼」が描かれ、イエスの初登場の場面となっていることに、しばし心を向けることとなる。
 
今週、「宗教改革記念日」を私たちは迎える。1517年という年号は、中学生にも必須の知識だ。10月31日、いまでいうハロウィーンだが、キリスト教会の祭りである万聖節の前夜祭のタイミングで、修道士ルターが、教会への疑問を公に知らしめた、ということになっている。逸話のように貼り付けたのかどうかは定かでないし、どのくらいの人々がその文を読めたかもよく分からない。だが、このルターの疑念を口火として、教会の改革が始まったという歴史を、歴史家は共有している。
 
教会に背いて抗議をした者という悪口を基に、ルターの側に立つ者たちは「プロテスタント」と呼ばれるようになった。悪口が新たな派の名になるのは歴史ではありきたりのことであり、「クリスチャン」も、そういう意味で呼ばれていたのではないか、と私は推測している。
 
聖書に基盤を置くという信仰のあり方を旗印に、ルターは、教会の権威や仕事について、聖書を基準に考察してゆく。特に、教会の重要な儀式としての七つの「秘蹟」は、プロテスタントによって、大幅に減少された。聖書に根拠を置く点で審査され、「洗礼」と「聖餐」は、それまでの教会、つまりカトリック教会から受け継いだ形となった。
 
説教者はことさらに触れることはなかったと思うが、ちょうどこれを意識した形で、本日の礼拝メッセージが組まれたのではないかと私は見ている。というのも、もしこの聖書箇所だけからであれば「洗礼」だけを持ち出せばよかったのに、説教者は「聖餐」についてもしばし詳しく語るのである。
 
聖餐を受けることは恵みである。カトリック教会のように司祭が神と信者との間に入る形で施すのとは異なり、プロテスタントの聖餐式は、一人ひとりが神の前にイエスの血と肉を受けるような形をとる。年に三度しか行わない教会もあるが、毎月最初の主の日の礼拝において聖餐式を行う教会が、私の経験上は多い。中には毎週、というところもあるのだろう。
 
これには、洗礼を受けるという前提が要求される。洗礼をまだ受けていない人は、聖餐に与ることはできないのだ。但し、これについては異論もある。信仰の心があれば、求める人には聖餐に加わってもらう、という教会も、一部にはあるのだ。これについてその主義の牧師と、教団との間で一悶着あって際限のない諍いになっているところもある。独立性の高い教会だと、それはもうその教会のやり方、ということになる。そういう教会の中には、どうも「信仰」ということについてかなり異様な理解をしているところが実際ある、ということも、私は知るものであるが、この問題についていまこれ以上拘泥しないことにする。
 
説教者は、「神を忘れ他者を忘れた自己実現は人を化け物にする」という言葉が忘れられない、と話した。この言葉、どこかで私は聞いたことがある。気になって少し探してみたら分かった。説教者の著書の中に書いてあったのだ。主の祈りで、神の御名を崇めるということについて説いているところだった。そこでも、どこで読んだか分からないが、忘れられない言葉として、学生時代に出会った、というのだ。そして、この本によって、鎌倉雪ノ下教会の川崎公平牧師や、キリスト教共助会の朴大信という方が、同じ主の祈りの説き明かしでこの言葉に触れている。詩編についてであったが、カンバーランド長老キリスト教会の国立のぞみ教会の唐澤健太牧師も緩やかに引用しているのを見つけた。
 
ここでは、主の祈りではない。聖餐である。聖餐は、自己を実現しようと自分中心になること、つまり化け物になることから守ってくれる、と語られた。今日の聖書箇所からすれば、このことに触れる必要は特になかったのだが、先に触れたように、「洗礼」と「聖餐」という、プロテスタントが残した二つの礼典を、ここに明らかにしておこうとしたのではないか、と推測する。
 
さて、洗礼のほうであるが、これはギリシア語からすると、「全身を沈めること」を含意しており、さらに言えばこれは「溺死」の意味に受け取るべきだ、とも言われる。私は確か佐藤研先生の本で見て、心に強く刻まれた。語学的な検証は私にはできないが、「それまでの自分に死に、神により新しい命に生かされる」ということは、洗礼のエッセンスであるから、そのような理解は当然あるべきだ、と考える。
 
そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった。(1:10)
 
イエスの洗礼は、もちろん罪を悔い改めるという、人間の洗礼のもつ意味合いとは訳が違う。だが、ここに「天が裂け」たという記述には、強い意味がこめられていることを、説教者は知らせる。
 
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコ15:37-38)
 
最も荘厳な場面だと言ってよいであろう。神殿の垂れ幕が裂けたことについては、マルコに続いてマタイもルカも踏襲している。それほど、これは欠かせない描写であったのだ。イエスが初めて登場した場面で天が裂け、神の子が降りてきて人と同じようになった。そのイエスが罪の赦しによる救いを実現するために最高度の痛みと苦しみの中で息絶えたとき、神殿の垂れ幕が裂けた。特別な祭司だけが知ることのできたその障壁は、神と人とを隔てる、絶対的な境界だった。だが、神と人と間を区分けするものが、このイエスの死、それから間もなく起こる復活によって、裂けてしまったのだ。神と人とがもっと自由に交わることができるようになる。時代のエポックである。ここで世界は特異点を迎え、ここから先は救いの時代となるのである。
 
すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(1:11)
 
説教者はこの小さな場面を、魔法のように語る。それは、ここにある視覚効果と聴覚効果を、言葉によって、聴く者の心の中に再現させるというものである。天が裂けると光が及ぶだろう。雲が広がり、それが裂けて光が射す。今も「ヤコブの梯子」などと呼ぶ光線があるが、それよりもなお栄光に輝くようなものであったことだろう。そして、声がする。どんな声だったのか、私たちは知る由もない。だが、御心に適うということがどんなに大きなことであるのか、人間としてじたばたしている私たちには、しみじみ分かる。イエスはそれを見、それを聞いたのだ。
 
ところが説教者は、ユニークな話を始める。いったい誰がこの話を知ったのか。イエスとヨハネのほか、誰も知ることのない現象を、どうしてルカなど福音書記者が知ったのか。説教者は想像する。イエスは弟子たちに、このときのことを、幾度も語ったのではないか。ペトロが自分の失敗を繰り返し語ったのとは意味合いが違うが、イエスもまた、大切な自身の体験を、ちゃんと伝えろよとでもいうかのように、弟子たちに語ったのではないか、というのである。
 
実のところどうだったのか、知る由もないが、これが記事となったからこそ、このエピソードは私たちにもいまこうして伝えられている。つまり、私たちも聴くことができる。そして、説教者がイメージ豊かに語るその魔法の言葉によって、聴く私たちの目の前に、視覚的な光景が再現される。私たちも同様に体験することができる。化け物にさえなりかねなかった私たちの目の前に、ほら、青空が広がっているではないか。このような景色を経験させてくれるのが、神の言葉が人を生かすということであり、説教の醍醐味であることを覚える。このようにして始まった新しい人生は、キリストが我が内に生きており、いつも共にいる、そのような人生なのである。
 
かつての自分は死んだ。しかし、主は生きている。私の内で生きている。説教者はそこに「喜び」という言葉を重ねて送り込む。本来説教はその部分強調したかったのではないかと推測するが、説教者は「喜び」よりも、「憧れ」という言葉をも強調した。イエス・キリストは、あこがれを私たちに、またこの世界に、植え付けてくださったのだ、と宣言する。私たちは憧れをもちつつ生きるのだ、それが喜びであり希望であり、ひとを生かすのである、と高らかに歌うのである。
 
「憧れ」と聴くと、私の狭い了見の中で、どうしてもボーレンの名前が浮かんでくる。加藤常昭先生の訳で『憧れと福音』という本がある。そこに見えていた景色は、「福音と憧れ、この互いに愛し合うものが、互いにゆきかい、互いにからだを伸ばし、抱擁する姿」であった。私たちはそこから、新しい人生を歩み始めるのだ。新しい人間になるのだ。
 
「あなたはどこにいるのか」と、説教者は説教の結びで、私たちに問いかけた。唐突な問いであったように聞こえた。だが、どのような説教においても、実のところこの問いが、最後に語られるべきであるのだ、ということに気づかされた。説教者は問わねばならない。「神の言葉を精一杯私は語った、それではあなたはそれをどこで聴いたと言えるのか、聴いたあなたはどうするのか」と。
 
なにせ、私が神の前に呼び出された言葉である。常々、それなしには説教を聴くことなど、私にはできないのである。今日は、心に絵を描こう。雲を破り差し込む光の向こうに、青空が拡がってゆく景色を。

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