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『もう、ひとりにさせない』(奥田知志・いのちのことば社)
読むのが怖かった。本の存在は知っていたが、怖かった。
これを読むと、自分がずたずたに切り刻まれるような気がしていたのだ。そして、今回書店で、どうしてもこれを買え、と本が告げた。覚悟した。
そして、ずたずたになった。
奥田牧師については、テレビなどでもよくお見かけする。政治的な発言もあるが、それは現実に政治的に動いているからである。そのため、ここでその活動について、ここで説明するなどという、野暮なことはしたくない。
福岡にいる者なので、実際にその礼拝説教を戴いたこともある。ゲストとしての説教者だったために、自己紹介もその中に含まれていた。従って、本書で語っているようなことも、当然ある程度周知している。また、そのことからメディアからの情報は積極的に感知しているために、いろいろな方のエピソードも、聞いたことがあるものが幾つもあった。
だが、打ちのめされる。
本書は、いのちのことば社の『月刊いのちのことば』に1年以上にわたり連載されていたものをまとめたものである。連載時には「わが父の家には住処おほし」というタイトルだったものが、『もう、ひとりにさせない ――わが父の家にはすみか多し』と、分かりやすい形になって、本書が誕生した。
どの頁にも、切れば血が噴き出そうであった。どの言葉にも命があり、その一言の背後に、どれほどの時間と労力が注ぎ込まれたか、想像しないではいられなくなり、胸が引き裂かれそうになった。
だが、私はここで依然として安穏としている。それは、奥田牧師がしばしば、ホームレスの人々のために炊き出しに行った後、家に帰って横になり、自分はいま何をしているのだろう、と自問して苦しくなる精神と、少しだけつながると言える。だが、つながらない。私は炊き出しに行くことさえ、ないのである。
しかも本書が出版される直前に、東日本大震災が起きている。これについて原稿の中では触れることはないわけだが、「あとがきにかえて」という形で急遽挿入された文章が終わりのほうにある。そのとき世間に拡がった「絆」という言葉に、「傷」つくことが含まれている、と説いたことは、実に重い。災害での困難と悲しみは、ホームレス支援の活動と、離れたものではなかったのである。
単に家がないことだけを言うのとは違う。人とのつながりがない社会の苦悩が伝わってくる。それは、よくあるホームレス像とは異なる、一部の若者の姿に重なっていることが、これも終わりのほうで中心に取り上げられる。あるいはまた、キリスト教会にいます、などと笑顔で答える人の中にも、もっと暗いものがあるかもしれない、ということでもあるだろう。
まだこの頃は、政治的な発言力もなく、メディアへの登場も目立っていなかったかもしれない。このとき、とにかく目の前の1人のひとに対してどうするのか、何ができるのか、という思いが溢れているように感じられた。制度としてどうなのか、という眼差しが、もちろんないわけはないのだが、それよりも、聖書の神と自身とが向き合ってサシで対話をし、自分の信仰というものの確かさを問われ、また問い返すかのようにして、研ぎ澄まされた目と耳とが、育まれていく過程であるようにも見えたのであった。
が、ひとつ、強い主張もある。それは「自己責任」という声についてである。世界の危険地域に入った者が人質とされても政府は助けることなく、世間でも「自己責任」という言葉が「正義」の怒号となって響いていた。「自己責任」あるいは「身内責任」を以て正義とする考え方には、かなり強く反発を示している。社会が――そして市民一人ひとりが――、「自己責任を果たせるための支援」をしなければならないのだ。
敢えて、本書の中のハイライトをここに並べることはしなかった。それは、理解の届かぬ私が、陳腐な「まとめ」をしてしまい、この本がそういうものなのか、というように無力な結果をもたらすことがないためである。読者が、一人ひとり神に向き合い、信仰と共に、同じ世界を生きる歩みを始めなければならないのである。その道を備える役目を、本書は間違いなく有している。