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『主イエスの背を見つめて 加藤常昭説教全集26』(教文館)

副題が「福音の真髄」と書かれているが、これについては「あとがき」に触れられている。たぶん、全編読み終えて、最後にそれを味わうとよいだろうと思う。
 
加藤常昭説教全集は、教文館より、2004年に発刊開始、2021年に完結した。全37巻の見事な全集である。かつてヨルダン社で20巻ものとしてあったが、それに17巻を加えた形で完結した。
 
すでに高齢で、視力に支障を生じていた加藤氏のおもな説教は、その時点でほぼ閉じられている。が、その後も実は礼拝説教者として呼ばれることがあり、その都度、これが最後だというような断りを出していたようである。私はそのうちの最新の礼拝に、オンラインで加わる幸運に与った。原稿を読むことができない中で、熱く語られたその愛の章からのメッセージは、確かに福音そのものであった。
 
本巻には、1970年頃の説教を中心に、「神への信仰」「主イエス・キリスト」「聖霊・教会・信仰の生活」の三部に分けて、全25の説教が集められている。特に第2部からは、確かに主イエス・キリストの背が見えるような旅を、読者は続けてゆくことができるだろう。先立つ主、さあ従えと道をつくりながら歩まれるイエスが、目の前に常に共にいるのであった。
 
その説教については、いまここで具体的にどうのこうのと告げることは控えたい。優れた説教は、語る者と神との関係が深く刻まれている。著者の場合、自身の体験や何らかのエピソードというものに、多くの時間を費やさない。聖書の言葉の意義を明らかにすると共に、そこから神が何を知らせようとしているのか、それを聞き取ろうと尽力する人間の業の粋を極めたような営みを呈しているのだと思う。
 
私の印象としては、説教のラストへ向けてクライマックスをもってきて、盛り上がる、そういうタイプではないように見受けられる。むしろどこを切っても申し分のない福音が詰まっている、巻き寿司のような充実感を覚える説教である。実際に語るときも、おそらくそのようであったのではないか、と推測する。10頁くらいでひとつの説教を形成するが、私たちはそのどこからでも、押し寄せる力を知り、受けることができる。なんという説教であろう。その息づかいさえ伝わってくるようである。
 
もちろんこれは、語った言葉をそのまま文字にしたものではない。書いたものとして示すためには、読むための言葉に修正しなければならない。そうした配慮を含めて、「説教」に対する並々ならぬ思い入れが溢れている。著者は「説教」というものに、人生を賭けてきたような方である。そうして実際に、日本の説教壇に命を吹き込んできた。もちろんそれは、福音宣教、神の栄光といった理念の下にあるものではあるが、著者のライフワークとしては、やはり説教だと呼んでも、失礼には当たらないだろうと私は思っている。
 
ドイツ、それもかつての東ドイツを知る故に、戦争とその後の社会主義の実情を憂い、キリスト教会の闘いというものを実感もした。哀しみの中に心が折れそうになった神学者に学んだ。自ら戦時中に洗礼を受けるという経験の中から、福音をこの国にという熱意に生かされてきた。それは、神の言葉が現実になるその場としての、説教というところに焦点が当てられるはたらきであった。
 
そこで、自らも説教論を記すと共に、そもそもドイツの優れた説教論や牧会論の数々を日本語で紹介する役割をも果たした。私は幸運にも、それらを古書という形であるが、多く入手することができた。一度読んだものを、最近再び読み直すことを試みている。著者自身の説教集や講話集も、価格的に家計が許す限り、購入して読んできたし、著者の優れた訳書もこの部屋の本棚に並んでいる。
 
但し、この説教全集は、なかなか安価には手に入らないので、実はこれが初めての購入である。今回の本は、掘り出し物であった。新品同様の美本であったが、かなり手近な価格で手に入った、奇跡的な恵みだったと感じている。
 
と、本の見返しを見て驚いた。著者のサインがあるではないか。いまから5年ほど前に贈呈したときのものらしい。「主の十字架と甦りのみ言葉のみを!」との言葉が添えられている。乱れた文字は、視力の頼りなさを表しているのだろう。
 
もしかすると、この書き込みのために、値が下がっていたのだろうか。いやいや、とんでもない。これはまたとない価値をもつ。古書販売の基準は、時にうれしい誤算をもたらしてくれるものだ。

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