『畠中尚志全文集』(畠中尚志・講談社学術文庫)
岩波文庫でスピノザの本を翻訳していることは知っていた。だが、こんな人生であった方だということは、知らなかった。感動しかない。
國分功一郎氏が、最近スピノザについて本を立て続けに書いている。それを味わう中で、この畠中氏のことにも触れることがあった。そして、近々畠中氏の文章を1冊にする、というような話を聞いていたので、予約注文していたのだ。
詳しくは本書をぜひご覧戴きたいので、ここに出してしまうことはしない。ただ、病気を背負い、最後は伏したままに口述筆記により、あれだけの翻訳を成し遂げたということは、お知らせして然るべきだろう。また、福岡に縁のある方だということも。その病の療養のために、福岡の地はとてもよかったらしい。それを聞いてほっとする。まとまった仕事もできたのだ。
畠中氏は、学界に属したわけでもないし、大学教授をしたわけでもない。そもそも大学を卒業することすらできなかったのだ。全くの在野の人である。しかし、その学究の姿勢は一途で、またいまなお燦然と輝く業績を遺している。私は、氏と比ぶべきものなどなにひとつないが、その在野精神とでもいうか、権威に関係なく究めようとする生き方には、自分を少しだけ重ねたいと思う気持ちがある。幸い健康には今のところ恵まれている方だが、追い詰められた条件の中でなされた仕事の数々には、そしてそれを全うした人生には、敬服するよりほかないと思う。
法学を求めて大学に入ったが、やがて哲学や宗教に惹かれていく。そしてあるとき天の声のように「スピノザ」の名を聞いて、そこから一生をスピノザのために尽くす。
一度だけ、学者と論争したことがある。明らかに相手は権威の塊であり、スピノザの訳には欠陥が多々あり、底本についても嘘を記しているのだと畠中氏は指摘した。これに対して相手は、無名の者が何を言うか、と反論にならない反論を出し、もう一度畠中氏は自分の語るべきことを告げている。巻末に解説を載せている國分功一郎氏によると、この相手の反論も掲載すべきか考えたそうだが、内容として愚に等しいそれを、この記念すべき畠中氏の全文集に載せることは、やはり相応しくない、と思いとどまったのであるらしい。確かにそうだろう。
これは全文集である。翻訳を載せたものではない。翻訳に加えた解説や折に触れ発表したエッセイなど、公表された文章を全部拾っている。畠中氏のお嬢さんは教授職などになっており、文章もひとつ寄せている。父の思い出である。これは温かくて、本書に添えられた花のようでもあった。
畠中尚志氏は、1899年に生まれ、1980年に没した。その重病であったことを思うと、長生きをされたものだと誰もが驚くそうである。海外のスピノザ研究の権威とは懇意であり、よい交わりもあったという。日本でスピノザといえばこの人だ、と世界は認めていたのである。語学も、ラテン語やオランダ語については、殆ど独学で徹底的に学び、これだけの仕事をした。とても真似のできない業である。だんだん視力も覚束なくなり、新聞を読むのも諦めて、研究と翻訳に勤しんだということも書かれており、涙を誘う。
本の裏に、これらの文章が、「この人がいかに稀有な存在だったかを伝える」と記されているが、まことにもう頭を下げ続けるほかないと感ずる。
地位や名誉という意味では恵まれなかったが、信じられないような出版もある。『神学・政治論』が、太平洋戦争末期に発行されているのである。スピノザが書いたのは、宗教による制約とは関係なしに、哲学を自由に明らかにするべきだ、という内容である。これがよくぞ、言論統制の厳しかった日本において、当局の許可を得られたものか、まことに奇蹟のようなものではないだろうか。思想の自由を、スピノザはその身を懸けて訴えた。無神論と迫害され、まともな社会生活を送ることができなかった生涯であった。自分の名を付けて出版した本はひとつに留まり、その『神学・政治論』ですら、すぐにスピノザの著作と見破られ、たいへんな攻撃に遭う。そのスピノザの魂が乗り移ったかのように、翻訳を続ける畠中氏には、出版の機会が十分与えられてよかったと思う。殆どは岩波書店から発行されているが、よい出会いがあったに違いない。
象牙の塔で安泰した地位にあり、すっかりもてはやされて笑顔で学問的権威があるのだと称している方々にとり、畠中氏はどのように目に映ることだろう。私はそのどちらにもなったことがないので、なんとも分からない。氏は信仰をもっていたとは言えないのだろうが、スピノザのために、福岡のカトリック教会で聖書や信仰のことを学んでいるという。聖書を知らなくしてスピノザは訳せない。その学びの中で、神との出会いはあったのだろうか。在野であるから、教会組織に染まらない形で、神が魂に宿ってくださっていたかもしれない、と想像するのは、私のただの自分本位であるだろうか。
畠中氏は自分の仕事について、「後から来る研究者のための捨て石となれば」と言っていたという。謙遜の限りを尽くしたような言葉であるが、イエス・キリストもまた、その「捨て石」たる自信を覚っていたのだとすると、氏の石は、堅固な岩となって、私たちの神への愛を支えるものとなっているのかもしれない。スピノザは、「神への知的愛」を見つめ続けていたのだから。