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『困惑を超えるもの 大沼隆遺稿説教集』(大沼隆・教文館)

日本基督教団仙台川平教会主任担任牧師、宮城学院宗教総主事などを務め、東北の地で50年にわたり伝道に奉仕した牧師が残した説教集。膨大なノートの束から掬い上げられた、生涯をかけて福音をあかしし続けた著者による心打つ魂の言葉。
 
本の帯にそう説明されており、これが本書の概略を簡潔明瞭に伝えている。その帯に、より大きな文字で書かれてある文句はこうである。「信仰とは、困惑があってもそれを超えて生きてゆくことである」、これが本の題の意味を示している。
 
説明としては、これで十分であろうかと思う。よくまとめてあると思う。全体的に、旧約聖書からの説教はわずかであり、多くが新約聖書からのものどある。しかも、福音書からのものが半分以上である。眼差しをイエスに向けた姿勢が感じられる。
 
その説教は、非常に現実的で、理性的である。しかし人間の知恵に基づくのではなく、基準を聖書に置いている。信仰のためのメッセージとしても非常に力強く響いてくるものがある。
 
但し、神秘的な体験とまでは言うべきではないにしても、イエス・キリストとの全身全霊での出会いというような様子は見られない。感情を排した形で、研ぎ澄まされた信仰を感じさせる、というのが私の受けた印象である。
 
しかしそれは、教育現場に携わる人としては、当然のことであったかもしれない。子どもたちへの教育の中では、そのようなスタイルが自然であることだろう。その観点が、通例の礼拝説教で用いられても、なんら不思議ではない。それらがまるで違えば、二枚舌のようなことになってしまいかねないのである。
 
それにしても、ここに取り上げられた説教の数々は、半世紀にわたる説教から集められたものである。それが、必ずしも年代毎に並べられているというわけでもなく、聖書箇所を基準に揃えられている。普通なら、説教者の年齢に応じた考え方と熟し方とでもいうべきものがそこに現れるために、ちぐはぐなものになりかねないと思われる。だが本書を読み終えての印象であるが、非常に自然に読み続けていくことができたことに、改めて驚いている。確かに、若さの中にある故の迷いやためらいなどが、ないわけではない。より広い視野が調う晩年のものは、社会に対するより鋭い洞察や将来への期待のようなものが混じるのも当然であろう。しかし、不思議なもので、安心してずっと同じ気持ちで受け続けることができたのは事実である。それは、神の前に出たスタンスというものが変わらないからではないか、と勝手に私は感じている。その時代における特別な変化や激情というもので左右されない、いわばブレない信仰がある、というふうに理解したいものである。
 
それは、世界からの厳しい批判や時代的風潮に対しても、びくともしない何かがある、ということでもある。時代に応じた批判や、キリスト教世界に向けた眼差しというものがある。それにいちいち特別な反応をしたり、逆に閉じこもったりしていては、キリスト教信仰は揺らぐばかりである。どのような批判も真っ向から受ける。それでも跳ね返すだけの岩なるキリストがここにいて、それに立っている。しかも世界に対して窓を閉じず、常に開き、どんな風をも感じている。常に聖書に戻り、教会というものの依拠するべきものが定まっている状態で、神の言葉に生かされているということを味わっているのである。
 
それでいて、その信仰は個人的なものに留まらない。社会を見つめること、その悪に気づく眼差しを得ること、そういうものも厳しく感じる。まさに「目を覚ましている」という姿勢だろうと私は思う。そして、過去の偉人の事例を取り上げながらも、それをいまの私たちがどう見つめ、どう受け継いでゆくかということを問題とする。
 
正に、現代を生きるキリスト者は、どういう立ち位置で、どういう見つめ方をするとよいのだろうか、という点に立脚しているメッセージである。だからまた、それは教育的だとも思うのである。
 
聖書を基に生きてゆく。極めて現実的に、実際的に、しかしあくまでも聖書という基盤を崩さない。現代人が聖書を信じる、ひとつの有力なスタイルではないかと私は感じる。
 
最後にひとつ。「勇気」という言葉が、いま「信仰」という言葉と置き換えてもよいのではないか、というようなことを、宗教総主事最後の説教で述べている(p274「勇気」)。それは、ティリッヒの『存在の勇気』という本が自分を多きく変えた、というところが動機となっているようだが、この点を敷衍したような説教がいろいろ見られるわけではない。個人的に、ちょっともったいなかったかもしれない、と思う。私ももちろんまだできていないのであるが、この「勇気」という言葉は、確かに聖書に頻出する語ではないにしても、大きなテーマとして取り上げるべき重要な言葉であると思うからである。つまり日本語で言う「勇気」というよりも、もっと広く深い理解が、必ずできる概念であると思うのである。人生に多大な影響を与えたその本から得られた直感から、もっと枝を張った樹木を、見てみたかった気がしてならない。

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