キリストの中で
黙示録の講解説教は、14章に入り、本日は「三人の天使の言葉」というタイトルがつけてある箇所が開かれた。中心聖句は、13節である。
また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
主「に結ばれて」というのは、英語なら「in」にあたり、聖書協会共同訳では「にあって」と修正されている。「に結ばれて」は、カトリックとの初の共同訳であった新共同訳において、しばしば現われる日本語であり、カトリック側の意向を取り上げているものと思われる。その意味がないわけではないが、英語の「in」を「に結ばれて」と訳すと、少なくとも英語のテストでは問題視される。あまりにも狭い視野に特定するのは、聖書の訳としては相応しくない、とすべきだろう。
それはともかく、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」、この説教で幾度となく繰り返し告げられた聖書の言葉は、これである。この言葉が、神から贈られたということだ。
「今」というのは、黙示録の時代のことをいうのであろうが、それが何年の何月何日というように定められていないからには、これを聞いた私たちの時代の「今」であっても構わないであろう。それにこの文章を目にしている方々の「今」であってもよいのだと思う。つまりは、この聖書の言葉を聞いた以上は、この後、主にあって死ぬ者は、不幸ではない、ということになる。さらに言えば、その死は終わりではない、ということだ。
だが説教者は、この「黙示録」なるものが、いま私たちが知るように、聖書のひとつの巻として出版されて、何十億という人に読まれている、というような事態を想定していなかっただろう、という点をひとつ押さえた。当時迫害の中にあって社会的に弱者であり、細々と信仰を守っていた仲間たちに向けて、これは記され、語られたに違いない、というのである。
「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」、この「に結ばれて」は、従来は、そして最新の訳では、「にあって」となっていることについて、既に触れた。だが「にあって」は、いかにもクリスチャン用語のようで、一般的にはピンとこないかもしれないと思う。説教者はこれを「において」というところを通り越えて、「の中で」と言い直して語った。つまり、「今から後、主の中で死ぬ人は幸いである」と解したのである。
これは対比を招く。つまり「主の外で」ではない、ということだ。
神の救いを受けるということは、ひとつには、神との適切な関係の内に入る、ということを意味する。そういう理解は、本質を外してはいないだろうと思う。そうなれば、私たちがこの地上で、生物学的な死を迎えたとき、神の中にいたならば幸いである、という意味に受け取ることが可能である。つまり、神との適切な関係にあるならば幸いだ、というわけである。
そうでなく、「神の外で」この生命活動を終えたとなると、それは幸いなことではない。神とは離れたままになってしまうことになり、救いを与えられたということにはならない、とでも言えばよいのだろうか。
それはまた、「神の国」にいる、ということでもあるだろう。神の国に入れられたのであり、救いを喜ぶシチュエーションである、と言えるだろう。
思い出は美しく見えることがあるが、かつての労苦も難儀な体験も、救いの完成の場面から見直せば、それらもまた、いまとなっては与えられた救いの喜びと平安への課程であった、と思えるのかもしれない。
そのようなことを会衆に思い浮かべさせながら、説教者は、せっかく開いたこの聖書箇所である、三人の天使の言葉を一つひとつ受け止める姿勢を見せる。
第一の天使は、「永遠の福音」を携えて来た。この「永遠の福音」という言葉は、たぶん聖書の中でここにしか登場しない。「今から後、主にあって死ぬ人は幸いである」というメッセージの主眼に照合すれば、この「永遠」は、「今から後」のことでもあるように見えるし、「主にあって」、すなわち「神の中で」「神の国において」という角度から捉えてみるのも心地よい。
説教者は、カルヴァン主義に立つ信仰基準である「ウェストミンスター信仰基準」を引いてきた。それは、その問1「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」という問いから始まる。その答は、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」となっている。この最後の、神を「喜ぶこと」に注目させるのが、引いた意図であったと思われる。
このように、私たちに何か新たな光を照らし、共に同じ一つの福音に気づかせ、それを体験させるというのは、説教者の重要な使命であると思う。また、そのためには、説教者自らが、先立ってその体験をしておかなくてはならない。教科書を棒読みするような授業ではなく、自ら知識の喜びを体験して熱く語る教師のようでありたいと願う。
第二の天使は、「大バビロン」、すなわちローマ帝国が倒れたことを示唆する。その国は、「怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませた」のである。説教者はしきりに、「名声に酔わせる」ことを戒めた。もちろん、ローマ皇帝が自らを「神の子」と呼ばせ、その尊崇の嵐の中で酔い痴れていたであろうことを想定している部分があったはずだが、それよりも、その「天下太平」の世の中で、精神的なバブルに酔い痴れていた国民すべてに対して、適用するべきことではないか、と私は考える。
一部の権力者だけがおかしくなって、それで無垢な庶民が犠牲になり、国が狂った方向に突き進む、という図式には、単純に当てはまらないに違いないのだ。確かに安全のため、保身のためではあるにせよ、その独裁者に従い、その暴走を止めることができなかった者たちは、結局その独裁を助長する仲間になってしまう、という点を見過ごしてはならない、と思うのだ。それは、これからの日本においても、簡単に起こり得ることだ、と私は断言する。
第三の天使は、そのことに触れているように思う。「獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者」が、獣の側についてその一味として働くことになるからである。この勢力に抗うのは、困難である。多数派に与することはあまりにも簡単だが、多数派に抗することには、特別な勇気が必要になる。
だから、「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」とも言っている。
そうして、だからこそ、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と書き記すように、神はヨハネに命令する。天使であろうが霊であろうが、その命令の発信は神である。そのため「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われる」という大団円へと向かうことを、神が約束するのである。
ここには確かに「裁き」が描かれていた。この「裁き」を蔑ろにする傾向が、近年キリスト教会では、危険水域にまで迫っているように見える。もはや独善的な裁きのメッセージは、人々にそっぽを向かれることが、明らかだからだ。そのため、「裁き」を強調することがない。また、引いては「罪」も語ることができない。
さらに言えば、語る者自身が、「裁き」も「罪」も、信じていないということが、決定的に重要であろうかと思う。
だって、神は愛だから。何をしてもいいのだよ、あなたはそのままでいいのだ。神はすべての人を救う。――こんなメッセージが、いまや掃いて捨てるほど振り撒かれている。
説教者は、私のようにそこまでは言わないが、「神の怒り」については断固として告げなければならないという使命を覚えている。神の怒りを、実はないのだ、というようにしようとする者がいる。しかしまた、そういう虚偽をばらまく偽預言者は、自分の怒りを正当化することについては、実に肯定的である。神の怒りなどない、と主張しておきながら、私が社会に、あるいは原理主義者に対して怒るのは正しいことだ、と自己義認するのである。愛である神が怒るなど神らしくない、などと勝手に決めつけることでよいはずがない。
説教者は断ずる。神の怒りを恐れなければ、人は滅びる、と。
しかし、神の怒りを恐れるとしても、私たちは現実に、黙示録の時代とはまた異なる形で、苦難に遭うだろう。そうした世間的な思想と対決するために、力を用いなければならなくなるであろう。時には「忍耐」が必要になるに違いない。「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」というのは、いまもなお、である。
時折、「忍耐すればそこに希望がある」と考える場合がある。迫害に耐え、歯を食いしばって信仰を続け、希望を握りしめているイメージをもつことがある。だが、どうやら違うらしい。「希望があるからこそ、忍耐できる」というのだ。希望が先である。また、その信仰が伴う、とも言えるだろう。また、それらを包みこむものとして、愛について私たちは思い描かざるを得なくなる。
これらの構成を、神はすでにご存じである。神の手の内で、神の想定内で、すべては進んでいる。私たちはこの神を信頼していればよい。神に希望を懐くことができるということは、それが赦されているということだ。自分の罪を知り、神の裁きに慄き、しかしイエス・キリストが呪いとなって救いの道を与えてくださったことを感謝して受け、その復活の命に与っているならば、即ち、キリストの中に私たちが生かされ、神の国につねにすでに居場所を約束されているならば、その希望は有意味である。その希望には実質がある。だからこそ、忍耐が可能になるのだ。
最後に、説教全体を振り返る。ヨハネの黙示録は、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」、ただこれをこそ告げたかったのだ。主の中で死ぬならば、それはキリストの中にあるわけである。そこは説教者は意識的に語ってはいない。だが、私においては、そこを捉えて、心の中で膨らませていた。
「主に結ばれて」を、説教者はこの説教の中で、「主の中で」と解して、会衆にイメージを与えてきた。それを私は、もう少し具体的なイメージを懐くために、「キリストの中で」と思い描くことにした。そのような訳語は、聖書の中にはひとつもない。だからこれは「聖書的」ではないのかもしれない。しかし、私たちはキリストを着ることができる(ローマ13:14,ガラテヤ3:27)し、キリストを心の内に住まわせることもできる(エフェソ3:17)。「キリストに結ばれて」と新共同訳で多数訳されているのであるから、それを「キリストの中で」と受け止めてもよいのではないだろうか。
さて、そのまとめの前に、説教者は、「私には夢がある(I Have a Dream)」(1963)という、キング牧師の有名なスピーチについて触れた。スピーチ、あるいは演説、として有名なその言葉は、内容としてはひとつの説教である、という視点で、読み直したことがあるのだという。
その中に、公的にこう訳されている文がある。「あなたがたは常軌を逸した苦しみの経験を重ねた勇士である。」これは、呼びかけている人々の中に、「多大な試練と苦難を乗り越えてきた人々」がいることを知っている、と触れた後に、この勇士宣言をして、「不当な苦しみは救済されるという信念を持って活動を続けよう」と呼びかけるのである。
この「あなたがたは常軌を逸した苦しみの経験を重ねた勇士である。」であるが、元の英文では、こうなっている。「You have been the veterans of creative suffering.」
あなたがたは、ベテランなのだ。クリエイティブな苦難の。
クリエイティブとは、独創的であることを意味するのだろうか。だから、誰も考えたことのないような「常軌を逸した」となったのかもしれない。そして差別を受けることに長い間耐えてきた黒人同胞たちを、「ベテラン」だと称した。厳しい戦いを続けている自分と仲間たちに、温かな眼差しを投げかけている様子が想像される。説教者は、教会の仲間たちに、そのような眼差しを重ねて、かつて訳したそのことを思い起こしているのかもしれない。
一方で、私は感慨深くこの原文を受け止めていた。もちろん、このとき初めてそうした原文を知ったのであるが、「クリエイティブ」とは、神の「創造」を連想させる語ではないか。「苦難」は、「キリストの受難」を連想させないか。神の創造の業と、救いの業とがここに豊かなリンクする。そして、「veteran」は、日本語のカタカナ(それはむしろexpert)とは意味が異なり、「退役軍人」や「老兵」を指すのだという。そして、後者をさらに展開されて「歴戦の勇士」を指すこともあるために、「経験を重ねた勇士」という訳語になつていたのだろうと理解できる。
キリストの中で、私たちは神の創造を知る。キリストの中で、私たちはキリストの受難を知る。神に歴史があるとすれば、神の原初を聖書から知り、神の特異点たるキリストの救いの時を知っている。聖書からも知るし、自らの経験としても知る。そのキリストの苦難を、私たちもまた、いくらか背負い、体験する。労苦してきたこの世での生活や、信仰における戦いの中を、生かされ続けてきた。そうした兵士である。マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉は聖書ではないけれども、それが「説教」として届けられたならば、そこに神の言葉がある、と受け止めることは可能である。神の言葉が現実のものとなって、60年の時を超えて、いまここに響いてくる。それは私たちの魂を生かすと共に、その言葉を生かし実現へと塑像とするのは、私たちに託された使命でもあるのだろう。そう信じても、強ち偽りとはなるまい、と私はいま思っている。