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『神の国』

アウグスティヌスの『神の国』を読み始めた。ふと、読みたくなったのだ。あまりにも高価だと手が出ないし、大きな本の塊の購入は、家族に叱られる。これは五巻あるが、文庫本である。お許しを戴こう。古いものなので、定価よりも安く手に入るものが多い。第一巻は、少し質の悪いものしか買えなかったが、読むのには何も差し支えない。
 
これが、なかなか面白いのだ。ドイツ観念論や現代フランス哲学と比べると、あまり深く考えずにどんどん読める。もちろん、それは聖書という共通基盤がある故なのだが、だからこそ、キリスト者は、こうした古典にチャレンジすると、もっと視野が広がるのではないかと思う。
 
まだ最初の方しか私は読んでいない。ちびちびと舐めるようにしか読まないからだ。しかし、初めからこの本は、かなり重い話題から入る。
 
アウグスティヌスについての紹介は省略するが、いわゆる西ローマ帝国末期の司教である。その著書は、哲学の古典としても優れたものとなっている。所はヒッポ・北アフリカの町であった。ゴート族の侵入でローマが陥落すると、それは近年キリスト教を国教としたためである、という非難が沸き起こる。アウグスティヌスは、それに対する反論として、この『神の国』を著したことになる。
 
時すでに、ヒッポの町も風前の灯火であった。蛮族と呼んだ外敵が、ローマ帝国を破壊してゆく。このとき、アウグスティヌスは、この本で先ず、女性たちのことを挙げるのだった。昔はあたりまえのようなことだっただろう。否、前世紀でも甚だ多く起こったともいうし、今回のロシアによるウクライナ攻撃でも噂されている。兵士が女性を襲うのである。
 
キリスト教を信じた女性は、これを阻むために、あるいはこれに絶望するかのようにして、自ら命を絶つようなことがあったようなのである。アウグスティヌスは、この問題を非常に大きく先ず扱い、自殺を禁ずるキリスト教とのバランスをとりながら、その被害者にも神の国は開かれているのだということを力説する。まことに胸の痛い話である。しかもここにいる私は胸を痛める程度ではあるが、当事者にとっては、絶望以外のなにものでもない。この辛い出来事を、口先だけで片付けるようなことは、厳に慎まなければならない。
 
アウグスティヌスは、こうしたローマ帝国の災難はキリスト教のせいではない、と論ずる。むしろローマ古来の神々に現を抜かす人々は何であるか、とまくしたてるようになってゆくのである。
 
戦争は醜い。しかし、現地の兵士もまた、ただの加害者だとは言えないことがある。戦争の現場にいた人の精神状態を細かくレポートした記録もある。異常な心理にならざるをえないことや、帰還してからもトラウマが残ることなど、深刻な事実が明らかにされていた。
 
もちろん、だから何でもしてよい、などと言いたいのではない。そもそも戦争そのものが、なければよいのだ。その戦争を起こし、戦地に行けと若者に命令する者は、概して年寄りであり、自分は痛みを覚えないような立場にいて、敵の攻撃から隠れているような者たちである。何を正義と掲げて、人々を「その気」にさせるのか、そこに能力を使う者たちである。
 
アウグスティヌスの時代とは、政治も教会も、全く違う。だが、不思議なことがある。同じ聖書をベースにしているためか、時代も場所も異なる私たちが、それなりに読めるのである。なるほど聖書はそう読むのか、と教えられることもあるし、そこにある事例を、いまの私たちの生き方に当てはめることも、十分に可能な面が多々あるのである。
 
イエス・キリストは変わらない。聖書の告げることは、確かに真実である。
 
アウグスティヌスが述べたかった「神の国」は、一種の理想世界である。私たちが生きているこの世界のことではない。だとすれば、私たちの世界の「教会」もまた、理想世界ではない、ということになる。「教会」のことを聖書で悪く言ってはならない、として批判を許さない立場の人がいる。しかし、たとえば同時にいま私が読み始めたモルトマンの『希望の倫理』でも、「現実に存在する教会には、暴力的な人々も座っている」と、冷徹な眼差しから言えることが告げられていた。この視点は、私も常にすでにお伝えしていることである。
 
自分のわがままで「教会」を悪く言う、それは戒められなければならない。だが同時に、「教会」だから必ず正義である、と構えることも、戒められなければならないはずである。それは、「教会」が組織となり、まるで「国家」のように、人格であるかのように振舞い始めたときに、起こりやすい。「教会」の権威をすぐに持ち出す人は、それが「国家」に似ていないかどうかよく問い直すとよい。そして、アウグスティヌスの『神の国』が、その問い直しを促す魅力のある本ではないか、ということも、ぼんやりといま私は考えている。

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