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立春と危機
春と呼んでしまうにはまだ早すぎる。これから一層寒くなる。だが、昔の考え方には、立春を年の初めとすることがあった。正月を「新春」と呼ぶのは、このことと関係があるのではないかと思われる。
「春」という言葉を用いるだけで、気持ちは動かされる。「春よ来い」と待つその心の内に、すでに春は迎えていたのである。賀状の「迎春」の思いは、喜びを先取りするところに起こっていたとも言えよう。
細かな点に触れると、「旧正月」は、月の満ち欠けから定めているのに対して、「立春」は太陽と地球の位置関係から規定しているため、前後1か月程度のズレが発生する。説明がしやすいのは、太陽暦の方である。だから今日から地球が、春のゾーンに入るのだ、この説明なら、小学生にも十分伝わる。というより、私程度にも説明ができる、ということである。太陰暦の説明は、お手上げだけれど。
年のうちに春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ (在原元方)
これは「年内立春」という、旧暦の大晦日を迎える前に立春が来たときのややこしい「一年」の捉え方を漏らしているものとされる。「春立ちける日」に詠んだ歌であるから、前日までの一年は、立春基準だと「去年」という扱いになるが、太陰暦に基づけば、まだ年内であるため「今年」という扱いになる。そういう意味なのであろうか。
「年内立春」は半分くらいの場合がそうであったわけだから、さして珍しいわけでもないのだから、その度に、こんな不思議な感覚を、誰もがもっていたとは思えない。そこを、理屈でこだわって歌にしたところが、多くの人にとっては「してやられた」という思いになるのかもしれない。
誰もが当たり前に思っていたら、謎も謎ではなくなる。「そういうもんだ」と気づいていても、わざわざ話題に上らせることもない。あるいは、全くそういう謎に気づいていない、ということもある。
聖書に接していると、そういうことがままある。最初はもちろん聖書は謎である。だが、イエス・キリストに出会って信じたら、それらの不思議を受け容れるのが当たり前になる。すると、改めて「これはどういうことか」と問われたとき、「そう言われれば……」と、これまで自ら問わなかった怠慢を省みることにもなる。
NHKの「チコちゃんに叱られる!」という番組も息が長くなってきたが、要するにそういうことなのだろう。生活で出会うことについて、一つひとつそれを謎と捉えて問うていると、ブレーキばかりで生活を進めることはできない。「そういうもの」として受け容れ、うまく立ち回るようにしなければ、やっていけないものだろう。
しかし、万事がそれであってよいわけではない。「そもそも」どういうことか、と尋ねることが全くないままなのは、とても危険なことなのである。話は端折るが、人文系の学問は、そういう「問い」を投げかけるが故に、これを役に立たないものとして排除する社会の動きは、この国の危機であると思う。そこから免れるためには、教育の内に「哲学」をもたない、あるいはもとうというつもりがないことを、改めることが必要だ、と私は常々考えている。