『アトムの心臓』(清武英利・文春文庫)
サブタイトルのように書いてあるのは、<「ディア・ファミリー」23年間の記録>である。本は文春文庫書き下ろしだというが、発行2か月後に、「ディア・ファミリー」と題した映画として公開された。私は例によって、予備知識なしで妻に連れられるままに観に行く。お涙頂戴という路線よりも、強い意志というものが伝わってきた。よい映画だった。
著者は清武英利氏。読売巨人軍取締役球団代表まで務めたことのある、讀賣畑のジャーナリストであり、ノンフィクション作家である。取材力と文章力のなせる業というところだろう。見事なプロの文章だと思った。
さて、物語の内容はこうした場で明かすわけにはゆかないというのが私のポリシーなのだが、映画も評判になったため、映画の予告などで知らされていることも多いから、一部は詳しく記すことを、例外的にお許し願いたい。もし、これから映画を楽しみたい、と思う方がいたら、以下は読まないで、直ちに映画を観る方へ向かって戴きたい。つまり、ネタバレをしてしまっているのである。
物語は、父である宣政の生い立ちから始まる。この父親の奔走が、物語の骨格である。その父二郎からビニール樹脂加工の町工場を引き継ぐ形になる。高校では柔道部というがっちりした体格。同じ部にサンダー杉山がいたというから、本格的だ。映画では大泉洋が演じていたが、イメージが違うかもしれない。豪傑で、意志を通す人というのが、物語全般を貫いている。見初めた女性をついに妻にするが、そのエピソードも豪傑であった。「自分の信じたことをコツコツとやり抜けば、必ず良い結果となる」という信念を以て、その人生が走り出す。そして妻の陽子さんも、宣政を支え、陰で助け続ける。
やがて3人の女の子に恵まれる。だが、二女の佳美が問題だった。生まれつき心臓に異常が見つかったのだ。会社の借金もあったが、この佳美の難病のために、宣政は、何もしないではいられない。会社を立て直すことに成功すると、利益を佳美の治療のために惜しみなく使う。手術などで改善できないことと、この先生きられる時間が限られていることを知らされると、人工心臓に希望の光を見出す。ビニール樹脂加工の技術を、人工心臓の開発のために用いるため、大学病院を巡り、やがてその足場をつくる。
億単位の金を費やすが、人工心臓そのものは、完成しなかった。絶望が走る。しかし、人工心臓に準ずる形で、心臓病の治療の改善を図る、別の方法を知る。今度は、バルーンカテーテルが人を救うことができるという。今度はその開発に乗り出す。
苦労の末、それができた。非協力的になってしまった大学に対してもそれを売ることができるようになり、金銭的にも膨大な借金から利益に転じてゆく。ただ、佳美の体はそれを使うことはもうできなくなっていた。それでも、映画でもそうだったが、佳美は、それで同じように苦しむ人を救ってほしい、と希望を託すのだった。
映画は、父親に光が当てられ続ける。妻の支えもよく描かれているが、娘当人の気持ちについては、控えめであった。いくらか主張や思いの吐露はあるが、副次的なもののように見えた。
だが、原作は私の見立てでは、少し違う。佳美の意志や心が、強く描かれているように思えたのだ。
もともと妻の陽子は、キリスト教に深い関わりがあった。教会に属していたようには書かれていないが、聖書を頼りに生きているようである。その影響だろうか、長女の奈美と、それから佳美も、教会に通うのだ。
小学生の佳美は、最初教会で、「永遠の命」の話に心を開かれる。「隣人を愛しなさい」の教えが、心にしっかり届いていたらしい。「一粒の麦がもし死ねば……永遠の命に至る」というようなつながりを、信じるようになっていったのだ。佳美は、傷つきながらも、人間として立ち上がろうとしていたのだ、と著者は記述する。否、私からすれば、神に立たせられた、と言いたいのだが。
少し成長すると、佳美は教会の若者の活動の中で当たり前に過ごす。時に教会で倒れて運ばれることもあったようだが、信仰は強かったようだ。洗礼を受けたいと親に話す。これには宣政は猛反対を繰り返していたらしい。仏教の家でどうするのか、激しい反対は、その一徹ぶりからしても、かなりのものであっただろう。しかし、佳美たちも負けなかった。そして洗礼にこぎつけるのである。だとすれば、この頑固で豪傑な父親よりも、娘たちの信仰のほうが、もっと頑固で強かった、ということになりはしないだろうか。私はそこに注目していた。
教会の青年たちの中には、少し年上の好青年がいた。2人の男性と親しく、そして最期まで共に過ごす。信仰が彼らを結びつけていた。
23歳。佳美が旅立つ時がきた。佳美の意識がなくなったと告げられて、家族の顔色が変わる。教会の牧師も来る。あの2人の青年も病院に駆けつける。皆で佳美を囲んで、賛美歌を歌う。コーラスまでつけて、賛美歌を歌い続けるのだ。泣きながら歌が続く。そして、その歌の中で、心電図の波が、小さくなる。
この本を綴ったのは、キリスト教の牧師などではない。冷徹なジャーナリストのライターが描いているのである。これは、頑固な父親を中心とした家族の物語だ、と映画は解釈した。そうだろうか、と私は疑問を呈する。佳美の信仰の物語ではないのか。これは、クリスチャンの物語ではないのか。
映画では、この信仰の部分は、たぶん描かれていなかった。だから、もしかするとクリスチャンの視界から外れているかもしれない。しかし、余命わずかと宣告された小学生が、聖書の言葉に涙して、永遠の命を信じ、頑固一徹な父親が反対するのにもなお、洗礼を受けたい、と自ら願ったのだ。
どうかクリスチャンと自称する人は、ここから何かを感じてほしい。何かが変わる体験をしてほしい。もちろん、私も、そうするつもりだ。