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「喜びに浮かれることのないように、悲しみに暮れることのないように」

どのような運が降りかかろうと、
喜びに浮かれることのないように、
悲しみに暮れることのないように、
万物は流転し、そして運もまた、
いつ変わるとも知れないのだから。

   ショーペンハウアー(ドイツの哲学者)

癒しツアー


「運」でいうと、不運な状態からなかなか抜け出せず、ただただ耐え忍んで毎日を過ごしていた。「なんで私ばっかり…」と思っていた。

もちろん私が自分で自分の立ち位置を悪くしてたこともあったと思う。

それにしても、しっぺ返しが大きすぎるんじゃないかと、理不尽な状況が理解できず、打つ手もなくて困り果てていた。


そのストレスからようやく解放された。


なんだか目の前の景色が輝いて見える。

空は曇ってるのに、いつもより視界が明るい。

朝の情報番組で、気象予報士が「立春は春の始まり。まだ春になったというわけではないけど、『光の春』を感じられるんじゃないですか?」と言っていた。

もしかしたら、それで景色が輝かしいのかもしれない。

季節のおかげだろうが何だろうが、理由は何だっていい。

事実、私の心は晴れやかだ。

穏やかな気持ちで過ごせることがこんなに素晴らしいなんて。




今回は、戸惑い、悲しみ、悔しさ、怒り、疎外感、呆れ、動揺、諦め、恐怖…といったいろんな感情を味わった。

一時は、ストレスが強くて、仕事を休まないと病んでしまうんじゃないかと思う程だった。


でも、思い返してみると、「いつかきっといいことが起こる」という強い信念があったわけではないけど、自分をダメにするところまで悲しみに暮れることはなかった。

もしかすると、無意識のうちに、「苦しいことがずっと続くわけではない」と経験的に知っていたのかもしれない。

ダメになる寸前で仕事が忙しくなって、意識分散できていたのかもしれない。


そうやってこれまでもいろんな形で不運が過ぎ去ったように、今回も幸運の番がめぐってきた。

やっと深呼吸できる。
ようやく背筋を伸ばせる。


ただ、これも経験から察知しているのか、「調子に乗っていたら、ある日突然、不幸の番が来る」と警戒している。

「喜びすぎたら後で痛い目にあう」と直感的に感じている。

調子に乗ったところを突き落とされると、浮かれてしまったという後悔は計り知れない。


「運」というのは本当に読めないもので、いつ、何がきっかけで風向きが変わるか分からない。

不運にしろ幸運にしろ、いつまで続くか分からない。

「これ以上の不運はない」と思っていても、次が幸運だとも限らない。さらなる不運に見舞われるかもしれない。

それは幸運も同じ。「私って幸せだ」「恵まれてる」と思っていても、急に運に見放されることはある。


そもそも「不運だ」「幸運だ」と意識しすぎない方がいいのかもしれない。


でも、私がネガティブだからか、不運を感じることが多い。

だから、今くらいは幸せに浸っててもいいんじゃないかとも思う。今まで耐えてきたんだし。

調子には乗らないようにしながらも、「幸せだ」と感じるのはいいんじゃないかな。


もしかすると、幸せになることに慣れていないだけかもしれない。

幸せ恐怖症というのか、「幸せになるのが怖い」とか「私が幸せになるのは似合わない」とまでは思わないけど、「幸せが私のデフォルトであるはずない」という思いは心のどこかにある。

幸せを幸せに思う気持ち、幸せに浸る感覚は、もっと知ってもいいのかもしれない。

浮かれすぎずに幸せを感じることに慣れてきたら、もっと幸せになれるかもしれない。もっと心にゆとりが生まれるかもしれない。


とにかく今は、自分を労わって、つかの間の幸せに浸りたい。



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