四谷怪談の現場を歩く(12)
死体発見現場―万年橋
最終漂着場所
伊右衛門の前に突如現れたお岩と小平の死体。まるで、伊右衛門が引き寄せられたかのようである。これも、怨念のなせる業だろうか。
戸板の死体はそれから小名木川を流れて、最終的に隅田川との合流地点にかかる万年橋のたもとで発見され、引き揚げられた。
万年橋に行くには東京メトロ半蔵門線の清澄白河駅が一番近いのだが、黒船稲荷に行ったついでだったので、門前仲町駅から歩いて向かった。
橋の下は遊歩道になっていて散策を楽しむことができる。心地よい川風を受けながら、広々と広がる隅田川の景色を堪能するには、春は絶好の季節ではないだろうか。
お岩と小平の死体は近くの法乗院に運ばれ、供養された。
お袖と直助はその法乗院の門前に住んでいる。直助は鰻掻き、お袖は寺の参拝者に香花を売り、古着屋の洗濯の内職もしている。
古着屋が女ものの着物をもってきて、お袖に洗ってくれと頼む。先に頼まれた男物の着物は、庭先に干されている。それは、万年橋で発見された戸板の死体から剥いだものなのである。湯灌場ものといって、隠亡が焼き場の死体から着物をとって、売ったものである。(本来は一緒に燃やすべきだが、隠亡の小遣い稼ぎでこういうことがあったらしい)
お袖は着物を見て、姉が着ていた着物によく似ていると思う。が、彼女は姉が死んだことを知らないのだ。
そこへ、仏孫兵衛がやってくる。孫兵衛は小平の父親。行方不明の息子を探していたが、法乗院に運ばれた死体を息子と確信した様子。物干しの着物を見て、息子のものと気づくがそれは口にせず、ただ「もう洗濯物、取り入れさっしゃれや」と言って去る。
お袖は、お年寄りが何やら心労を抱えているらしいと思いやりながら、ふと、父と許嫁が死んで百箇日が今日なのだと思う。仇を探したいばかり、直助と形だけの夫婦になったのである。
日も暮れて、預かった着物の洗濯は明日にしようと、お袖は盥の水に着物を浸した。
豆知識
小名木川河口の堤防の上に小さな芭蕉庵史跡展望庭園がある。万年橋の近くに、松尾芭蕉の庵があった。門人がくれた芭蕉を庭に植えて、それを庵の名にしたそうだ。やがて、庵主自身も芭蕉と号した。江戸切絵図を見ると、文久三年ごろは松平遠江守の屋敷の敷地内になっている。
また、記念庭園のすぐそばに、芭蕉稲荷がある。この神社自体は大正時代に建立されたものだが、芭蕉庵は大体この辺りにあったものと思われる。大正六年の津波襲来の後、芭蕉が愛好した石造の蛙が発見されたそうで、それが神社創建のきっかけだそうだ。(大正六年の津波とは、大型台風による高潮のこと。東京湾の被害がひどく、満潮時の潮位は3メートルを超したそうで、当時の新聞は「大津波」と記している)