
大和岩雄遺稿『日神信仰論』(3)
古代史研究家の大和岩雄さんの遺稿『日神信仰論』から、特に筆者が個人的に「おもしろい」と感じたところを中心にご紹介しています。
前述したように、大和さんは古代日本の始原の神は男女二神のペアだと書いているわけですが、『古事記』の冒頭では最初に高天原に出現した神は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱神です。
「なんだ、男女二神じゃないじゃない」
大和さんはこれは古代中国の「七、五、三」の聖数の思想を取り入れたためだといいます。
最初の三柱の神に続き、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の二柱神を合わせて五柱。
さらに国之常立神、豊雲野神をあわせて七柱です。ここまでの神は獨神(男女ペアでない神)だと『記』は書きます。
しかし、高御産巣日神と神産巣日神はペアだし、天之常立神と国之常立神もペアでしょう。宇摩志阿斯訶備比古遅神は男神ですが、豊雲野神はどちらでしょう。この二柱はペアなのかわかりません。「七・五・三」の聖数を示すための数合わせで書き込まれたのでしょうか。
それに続く宇比地邇神と妹須比智邇神。角杙神と妹活杙神。意富斗能地神と妹大斗乃辨神。於母陀流神と妹阿夜訶志古泥神。伊邪那岐神と妹伊邪那美神は男女ペア神ですね。
始原の神の本来の形は男女二神であり、
高御産巣日神━━男神(カムロキ)
神産巣日神━━━女神(カムロミ)
だったでしょう。
ということは天御中主神は中国思想を取り入れて作られた神でしょうかね。
ところで高御産巣日神はしばしば天照大御神と行動を共にしています。高御産巣日神のパートナーは神産巣日神のはずですが、この神は出番がほとんどありません。神産巣日神の役割を天照大御神が担当しているみたいです。
この高御産巣日神には「高木神」という別名があります。大和さんはこれに注目しています。それは、大きな柱を垂直に立てることが、日神信仰にとって重要と思われるからです。
『日本書紀』の神功皇后摂政前紀に次のような記事があります。
神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
最後に出てきた長い名前の神は、伊勢の神なので天照大神の別名だといわれています。
幕末の鈴木重胤は天照大神の荒魂と解釈して、これが広く知られていますが、大和さんに言わせてば「思いつき」だそうです。
なぜならこの説は、神功皇后摂政元年二月条の「天照大神、誨へまつりて曰はく。『我が荒魂、皇后に近くべからず。当に御心の広田国に居します』とのたまふ」から類推しているのですが、これは伊勢神宮ではなく、兵庫県西宮市大社町の広田神社のことなので、まったく関係ないのです。
勤王の国士鈴木重胤にとって、伊勢の神は天照大神でなければならないのでしょう。それで、この神は天照大神の荒魂だろうということにしたのです。
大和さんによれば撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、男女の神が合体しているというのです。撞賢木厳之御魂が男神、天疎向津媛が女神です。
撞賢木厳之御魂━━男神(カムロキ)
天疎向津媛━━━━女神(カムロミ)
撞賢木は突き立てた榊です。これは高木神を思わせますね。ご神木に依り付く御魂の神という意味です。
突き立てたご神木といえば、伊勢神宮正殿の床下にあるという「心の御柱」や諏訪大社の御柱が思い浮かびます。高木神はこうした垂直に立てた柱に降りる神なのです。
大和さんはそのほかにも、縄文遺跡の列柱(寺地遺跡、真脇遺跡、三内丸山遺跡)を例に挙げ、それらの柱も神の依り代であろうとみています。真脇遺跡や三内丸山遺跡の列柱は、冬至、夏至の日の出・日没の方向を示しているといいます。
これらの柱は朝日を迎える依り代と考えられます。
地面に立つ石棒も同じ働きかもしれません。明らかに男性器をかたどっていますが、面白いことに、石棒の頭の部分に女陰を表すとみられるひし形や三角の彫刻をされているものがあります。これは男女の神が合体しているのです。
このように男女が一体で表現された神像は石器時代から世界中で見つかっています。やはり、始原の神は男神・女神のペアなのです。

筆者模写
それで思い出すのが伊弉諾・伊弉冉の二神が天の御柱を廻りあって結婚する話です。御柱は男女神を結びつける装置のようです。
撞賢木厳之御魂とペアになる天疎向津媛は、どういう神でしょうか。天は横イメージの天。天から遠ざかり向かい合う日女神です。
撞賢木厳之御魂が高木神・高御産巣日神ならば、天疎向津媛尊は神産巣日神・天照大神という関係が成り立ちます。
『古事記』に、天照大御神が天孫日子番能邇邇芸命に
「これの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拜くが如拜き奉れ」
と八咫鏡を渡して、葦原中國に天降らせます。
この鏡は天照大御神の御魂代です。
天にある日神に向かいあう日女神(天疎向津媛尊、天照大神)の鏡は、姿見の平面鏡ではなく、光を集める凹面鏡です。
わが国で弥生時代中期に最初に受け入れた鏡は「多鈕細文鏡」で、凹面鏡だそうです。凹面鏡なので像が逆さまになって姿見には適しません。このことから儀式用の鏡と思われます。その儀式とは、日神の祭祀で日光を集めるために使われたと想像されるのです。
つづきます