1945━帝国の戦争の終わり方③終
小代有希子著『1945・予定された敗戦━━ソ連侵攻と冷戦の到来』(人文書院)から、敗戦の色濃くなった日本がどうやって戦争を終わらせようと考えていたかについてみていきます。其の三回目。
小代氏はこの戦争を「大東亜戦争」や「太平洋戦争」ではなく、「ユーラシア太平洋戦争」と呼称しています。
太平洋戦争史観では、日本とアメリカの戦いが主体になります。しかし日本にとってソ連(ロシア)がアジアで果たす役割は、アメリカ以上に重要でした。
つまり米英が牛耳る世界経済体制の対抗馬として、アジアにソ連のような共産主義を取り入れるのもアリだというのです。東亜共同体論や新体制運動を唱導した昭和研究会や、日ソ中立条約を締結した松岡洋右外務大臣などが、まさにこの考えだったそうです。
日本は最初から最後まで反共という認識で(それはそれで間違ってませんが)、まさかアジアの共産化を容認(条件付きですが)していたなんて正直驚きです。筆者が無知なだけかもしれませんけど……。
米英のアジア侵略を食い止めるためにロシアと手を結ぶべきという発想は二十世紀初頭からあり、初代韓国総監の伊藤博文と南満州鉄道初代総裁の後藤新平は、日露戦争に勝ったとはいえ、次はアメリカが日本のアジア政策に干渉してくるかもしれないので、ロシアを含めたユーラシア同盟を結成すべしと提案しています。
アメリカは南満州鉄道を買収しようとして失敗すると、満州を中立化して日本の権益を認めない方針をとろうとしますが、それに対して外務大臣松岡洋右はソ連の存在を利用してアメリカがアジア大陸に近づかないようにできないかと考えたといいます。
1941年4月に締結した日ソ中立条約は日本が中国と戦うために結んだ条約ですが、松岡はまさにソ連をアメリカに対する東アジアの防壁とみなしていたのです。
松岡は日ソ不可侵条約の可能性についてもたびたびソ連側と会談していますが、こちらは実現しませんでした。
1943年初秋、日本政府は対ソ連外交において、ソ連が対日参戦してこないように友好を保つという方針を採択しました。しかし、この年の初めから、駐ソ連大使補佐役の守島伍郎は、ソ連は中立条約を守り続ける気はないと、東京に警告を送りました。44年秋に守島が帰国し、再度外務省にソ連の動向に注意が必要と伝えたところ、そんなことはわかっているという反応でした。
1944年10月、日本海軍はレイテ沖海戦で圧倒的敗北を喫します。翌11月、
スターリンは日本を名指しで「侵略国」と批判。参謀次長でロシア通の秦彦三郎は小磯首相に対し、遅かれ早かれソ連は中立条約を破棄してくると述べました。
それにも関わらず、1945年5月の最高指導会議で、モスクワとの外交交渉を試みることに全員一致で決定。ソ連が日米の和平の仲介をする可能性など、まったくないことを分かっているのに、それどころかいずれソ連が対日戦に参戦するだろうと予想しているのになぜでしょう。
ソ連に対して、仲介のお礼に漁業権やら、津軽海峡の船舶通過権やら、北満鉄道の権利やら、大連や旅順の租借権やら、クリル(千島)列島北部の譲渡やら、南満州の中立化やらお土産をどっさりそろえて…。ただし、スターリンがこれらに関心を示さないだろうということはわかっていたらしいのですが。
ここで注視してほしいのは、これらの譲歩に朝鮮は入っていないということです。日本政府はソ連が攻めてくる場合、朝鮮にも進攻するかもしれないとは考えていましたが、ここは切り札として残しておいたのです。
1945年7月3日タス通信は、日本は中国に大軍を有しているのに、なぜかソ連国境に軍隊を転用する様子がみられない。どうしてソ連戦に向けての準備をしないのか、スターリンが疑問を抱いていると伝えています。
まるでソ連に攻めてくださいと言っているようなものです。
日本軍は朝鮮の軍備でも、アメリカが沖縄から九州か朝鮮半島南部に上陸するのではないかと配備を急がせていましたが、朝鮮北部は手薄のままでした。
7月24日(ポツダム宣言発表二日前)ソ連はアメリカ軍が朝鮮上陸を予定していないと、アメリカ側から知らされます。アメリカは朝鮮をソ連に譲る気でしょうか。
実はこの時すでにアメリカは原子爆弾を完成させていて、この兵器をもってすれば、ソ連の参戦無しに日本に勝利すると考えていたのでしょう。
そして26日、ポツダム宣言が発表されます。翌27日の朝日新聞は、ソ連の参戦が近いと報じています。
8月6日、9日、広島と長崎に原子爆弾が投下されます。アメリカは戦後この原爆が太平洋戦争を終わらせたといいますが、真実は違います。
長崎に原爆が投下された日、遂にソ連が満州に攻め込んできました。そのとき天皇と近衛文麿は「天祐であるかもしれん」といろめきたったといいます。
これまで見てきてわかるように、日本はソ連の参戦のタイミングでポツダム宣言を受け入れたのです。つまり、ソ連がユーラシア太平洋戦争を終わらせたのです。
アメリカは日本を単独で占領することはできましたが、中国には進出できませんでした。中国の内戦を制したのは日本の読み通り毛沢東の共産党でした。
ソ連が日本の思惑以上に侵攻を続けたのは計算外でしたが、アメリカの大陸への介入は一先ずソ連によって防ぐことができました。(朝鮮戦争はその後の出来事です)
占領された日本はアメリカの「再教育」によって、アジアよりも太平洋の向こうばかりを見る国になりました。学校教育もマスコミもそろって戦前の国家の政治、無謀な戦争を非難しました。そして、アメリカの望み通りアメリカに逆らわない国になりました。
東アジアはその後自力で欧米の植民地支配から抜け出し独立しましたが、そこに日本の姿はありませんでした。しかし、それは戦前の日本が望んだことでもあります。
戦前の政治の中枢にいた人たちは逮捕され極東軍事裁判にかけられ、しかし彼らは東アジアから米英を追い出す一連の敗戦工作については戦後誰も語っていません。
従来の定説では、日本軍部は情報を軽視し、日ソ中立条約に甘えてソ連に対して無駄な働きかけを続けて、結局国土が焼け野原になってしまったといいますが、アジア主義の目的を考えればそれは少し違うのだと小代有紀子氏はいうのです。
小代氏の説は正しいかどうか、評価できるほどの知識もないので何とも言えないません。もしアジア主義の大義のために終戦のタイミングをソ連の参戦に合わせていたのだとしたら、何も知らされずに満州に取り残された日本人入植者たちは「冗談じゃない」と怒るどころではないでしょう。
最後に、この本では当時の日本で発行されている雑誌や新聞の論評や、特別高等警察(特高)が街中で採取した一般庶民の声からも、意外にも日本人は海外の情報を豊富に入手でき、情勢について鋭い考察をしていることが知れて、それがとてもおもしろかったです。
了