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将門を祀る?髙安寺(府中市)
府中市片町にある龍門山髙安寺へ行くには、JR南武線か京王線の分倍河原駅で下車する。私はどちらを使っても行けたが、今回は南武線で向かった。
旧甲州街道へ出て、少し東方向(新宿方面)へ歩く。道は微妙に上り坂である。また、南の方へは地面が下っている。旧甲州街道の南2㎞辺りを多摩川が流れている。川へ向かって土地が傾斜しているのだ。多摩川は昔はもっと北を流れている時代もあった。この辺りを地図で見ると細い支流が無数にあるのが分かる。
寺のあるあたりが一番高くなっているようだ。寺の前の微妙な上り坂には「弁慶坂」という名がある。
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右手に髙安寺の塀
微妙な上り坂の弁慶坂
髙安寺は曹洞宗の寺で足利尊氏が開基したというが、実はその前に別の寺があったという。その長い歴史を追ってみよう。
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寺伝によると、ここにかつて藤原秀郷の屋敷があったという。
藤原秀郷は天慶三年[940]平将門の乱の平定の功績を認められて、従四位下に叙せられ鎮守府将軍に任じられ、また下野守を兼任した。
その後、いつの年は分からないが武蔵守に任じられる。
屋敷は武蔵守の時に造られたらしい。この場所から武蔵国府まで1㎞も離れていない。
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秀郷が任を解かれて下野国に帰郷した後、ここに市川山見性寺という寺が建立された。宗派など詳細は不明だという。
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境内の墓地の片隅に藤原秀郷の名が付いた秀郷稲荷がある。
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御祭神は咤枳尼尊天。咤枳尼尊天はインドの夜叉女神で、稲荷神と習合した。
どうも秀郷は稲荷との結びつきが強いように思えるが、実際のところどうなのだろう。
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平安末期の源平の乱の後、源義経が見性寺に滞在している。兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されなかった義経は、京都に向かう途中、ここで赦免祈願の大般若経を写経した。
写経のために寺の裏の井戸で清水を汲み取った。その井戸が弁慶硯の井という名で今もある。
秀郷稲荷のすぐわきの、崩れかけた階段を降りていくとその井戸がある。
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階段は土が崩れてかなり下りにくい
地面が湿っているときはちょっと危険
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ここで弁慶が主人の為に硯の水を汲んだ
先に弁慶坂のことを書いたが、他に弁慶橋という名の橋もあったらしい。義経よりも弁慶の方が多く名を残しているのはなぜなのだろう。家来の方が主人よりも活発に外で活動していたからなのだろうか。それとも弁慶の方が親しみやすいキャラだったからなのか。
鎌倉時代の末期、この寺から南西に1㎞の所にある分倍河原で鎌倉の北条方と新田義貞が戦った。その際、見性寺は新田義貞が本陣を張った所という。
分倍河原古戦場は現在の多摩川からは離れていて、今は碑文が残るのみ。
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室町幕府の初代征夷大将軍足利尊氏は奈良時代の国分寺に倣い諸国に安国、利生塔の建立を発願した。しかし、全国に新しい寺を作るのはとても無理なので、既存の寺を再興することにした。
貞和四年[1348]頃、見性寺も武蔵国安国寺として選ばれ、龍門山髙安護国禅寺と改められた。臨済宗建長寺の末寺である。
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髙安寺の本堂の扁額に「等持院」と書かれているが、これは足利尊氏の院号である。また寺紋も足利氏の家紋と同じ「丸に二つ引両」だ。
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写真が小さくてすみません
拡大してみてください
その後も鎌倉公方が幾度かこの寺を陣所としているのは、甲州街道だけでなく、すぐ近くを鎌倉街道が通っているからだろう。
戦国時代、室町幕府が滅び、庇護していた小田原の北条氏も滅亡すると髙安寺も衰退した。
慶長年間[1596~1615]青梅二俣尾海禅寺七世の関州徳光禅師天江東岳和尚という人が髙安寺を再興させる。その際、臨済宗から曹洞宗に替わり、海禅寺が本寺となった。
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青梅の海禅寺については、近いうちに行きたいと思っているので、詳しくはそこで。
江戸時代には徳川将軍家から御朱印十五石を拝領したという。
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多摩川の近くにあったが洪水で流され、享保年間に移された
開基足利尊氏の発願の安国利生の祈願所の伝統を継ぎ、毎朝大般若経の祈祷を行っているそうだ。
本尊は釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊仏である。