将門を祀る!金剛寺(青梅市)
JR青梅線の青梅駅で下車。何年ぶりだろう。いや、何十年ぶりか。それにしては駅はあまり変わっていない印象。
駅前の青梅街道を奥多摩方面に歩く。街道沿いには古い民家が現役で結構残っている。
旧稲葉家住宅が見えたら左に折れて多摩川に向かう急な坂道を下る。すぐに右手に金剛寺の白壁の長い塀が見えてくる。
青梅山金剛寺は真言宗の寺である。平安時代の承平年間[931~937]平将門の開基という。
将門は馬の鞭にしていた梅の枝を地面に刺し、「我願成就あらば榮ふべし、しからずんば枯よかし」といって誓ったところ、芽吹いて枝を茂らせたので、将門は喜んでここに仏閣を建てた。
そして京の蓮臺寺の寛空僧正に開山を請うたが、寛空はこれを辞退。その代わりに弘法大師自刻の像を贈って開祖に充てた。そして弘法大師の灌頂号である遍照金剛から寺号を金剛寺とした。
また将門の念持仏の阿弥陀仏(無量寿仏)から、院号を無量寿院と号した。
将門の梅は今も本堂の前にあり、私が訪れたときも白い花が咲いていた。
この梅になる実は落実まで青いままで、黄色く熟さないことから「青梅」の地名が生まれたという。
「新編武蔵国風土記稿」に、往古の梅樹は枯れたので、神像を作って稲荷に祀ったとあるので、今の木は別の場所に挿し木で増やした木を移植した二代目という。
この本堂に将門平親王朝臣代代尊霊と書かれた位牌があったという。金剛寺は将門の子孫と称する三田一族の位牌があるので、三田氏の誰かがつくったものだろう。現在将門の位牌は残っていないようだ。天保十二年[1841]の火災で焼失してしまったのだろうか。
十四世紀、頼遍上人が寺を再興し、上人を中興の祖とした。
戦国時代、三田氏が小田原北条氏に滅ぼされた後は北条氏が庇護したという。
また、徳川家康により寺領二十石を拝領した。江戸時代は真言宗檀林所として二十五ヶ寺の末寺を擁した。
今回は雪の残る季節だったが、昔ここに来たときは三月の初め頃で、地面につくほど伸びた枝に咲く枝垂桜の花が見事だった。東国花の寺百ヶ寺のひとつになっている。
また、多摩八十八か所霊場四十七番、奥多摩新四国霊場八十八カ所五十四番でもある。
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