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あれ、どうなった?諏訪湖底の菱形遺構

 今年の四月に長野県の諏訪湖で、武田信玄の墓探しが行われたそうです。『甲陽軍鑑』によると、武田信玄は死に際し、自分の死を三年秘することと遺骸は諏訪湖に沈めることを遺言したといいます。

 四十年ほど前に、諏訪湖の湖底に菱形の大きな物体が沈んでいるというニュースがありました。武田家の家紋が菱形であることから、これは信玄の水中墓ではないかと話題になりました。
 いつのことか調べてみると、1987年のことでした。
 国土地理院の依頼で、水中ソナーを使って地形を調査していた民間会社の技師が発見したというのです。

 当時のことを筆者もまだ記憶しています。モノクロのぼんやりとした画像で確かに菱形をしており、もし自然にできた形だとしたらそれはそれで不思議だと思えるほど、きれいに整っていました。

 その後、どこかのテレビ局がその菱形を水中に潜って調査する番組がありました。筆者も見ましたが、録画はしていないので、脳内の記憶を頼りに思い出してみます。

 結果的に、信玄の墓は確認できませんでしたが、いくつかの発見はありました。覚えているのは木製の椀で、特徴的なのは椀の縁に穴が数か所開いていたことで、穴の一つには箸のような棒の切れ端が突き刺さった状態で残っていました。(何か模様があったようですが、覚えていません。ネットで調べると、桔梗紋だったらしいです。武田菱でも諏訪大社の梶の葉紋でもありませんね)

 その椀を見た考古学者(?)の先生は、食べ物などを中に入れて、供物として湖に沈められたものではないか。椀の穴と箸のような棒については、椀の蓋が水中で外れないように、棒で固定したのではないかという推論を立てていました。

 だとすると、供物は何に対して捧げられたのでしょうか。滋賀県の琵琶湖でも、かつて供物を水中に沈めるということが行われていたといいますが、諏訪湖でも同じことをやっていたのでしょうか。

 テレビ番組では、菱形遺構そのものが泥に埋もれていたのか確認できなかったと思います。
 その後も1990年代にかけて、何度か信玄の水中墓を探す調査は行われたようですが、菱形遺構については人工物かどうか確認できなかったとのことでした。

 しかし、菱形はくぼんでいて、東西に17m、南北に25mほどの長さがあり、各頂点は東西南北に正確に位置していたのです。これは自然にできる穴なのでしょうか。

 結局謎だけが残りました。今年行われたという信玄の水中墓探しも、墓が見つかったという話は聞きません。(発見されたら大騒ぎです)

 ところで当時、筆者はテレビ番組を見てこんな感想を持ちました。

「もし、信玄の遺言通り諏訪湖に遺骸を葬ったとしても、荼毘にふして骨壺に入れて、それが収まるくらいの小さな石櫃に入れて湖に沈めるのではないか。25メートルもあるような巨大な墓を水中に作るとは思えない」

 あれが人口の構造物だったとしても、信玄の墓ではないだろうと思いました。

 としたら、あれは何だったのでしょう。健御名方たけみなかた命の墓━━というか祭祀遺構なのでしょうか。

 健御名方命は出雲の国譲り神話に出てくる神で、大国主命の御子神といわれています。
 天照大神と高皇産霊たかみむすび神の命で出雲に派遣された建御雷たけみかづち神と天鳥船神に対し、大国主命の御子事代主ことしろぬし命は国譲りを承諾しましたが、弟の建御名方命は反対しました。
 しかし、力比べで建御雷に敗れると科野しなの国の州羽海すはのうみまで逃げて、州羽から出ないことを誓いました。

 この話は『古事記』には出てくるものの、『日本書紀』にはなぜか建御名方は出てこないのです。そのため、建御名方は『古事記』の編纂時に挿入されたのではないかという説があります。
 具体的には科野国造家の金刺氏の頼みで、同族の太安万侶(『古事記』編纂者)が建御名方命という神を創作して、国譲り神話に組み込んだというのです。

 もしそれが真実なら『古事記』の成立は8世紀の初めころなので、建御名方もその頃に作られたことになります。
 太安万侶ではなく、科野国造家の創作だとしても6世紀よりは遡らないのではないでしょうか。

 建御名方が諏訪に逃げてきたとき、そこには漏矢もりや神(守矢)という土着の神がいて、いくさになったといいます。そして漏矢神が敗けて国の支配権を譲りました。
 その後、守矢氏は諏訪大社上社の神長官を代々務めました。

 菱形遺構は土着の漏矢神に関連するのでしょうか。それとも守矢氏が屋敷神として祀り、縄文時代までさかのぼれるというミシャグジという古い神を祀った遺構でしょうか。

 妄想ばかりが膨らみます。もちろん、単なるゴミという可能性もありますけどね。

 誰か再びあの湖底の謎の穴を調べてくれないかなぁ。
 

 

 

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