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介護業界に入りたくなかった私がこの業界にに入るまで
最近更新頻度が減ってしまいました。
書きたいことはあるんですが、文章にしようと考えた時になんか数行で終わってしまう感じで・・・それでもいいんですけどね。
というわけでもないですが、今日はいつかはこれを文章に残しておきたいと思っていたことを書いてみたいと思います。
私は現在社会福祉法人の経営に携わっており施設管理者もしております。
その法人は私の祖父が立ち上げ、初代理事長ではありましたが、実際は私の父親(現理事長)と母親が立ち上げの主を担っていたようです。
両親がこの社会福祉法人を立ち上げる頃は、私は中学2年生だったように記憶してます。
急に両親が忙しくなり姉、私、妹の3人で夕飯を食べることも少なくなかったですし、とにかく家でも仕事の事ばかりで、いろいろ話を聞いてるとどうやら老人ホームを作るみたいということはわかりましたが、その頃の私は老人ホームがどんなところかもピンと来ていませんでした。
両親は朝早くから夜遅くまで仕事に行っており、帰ってきても仕事の話、お金の話をしており、時には喧嘩もし大変だなーと思ってました。
喧嘩はそれ以前も以降もしているのであまり気にしていませんし、どちらかというと父が勝手に怒って怒鳴って、母は聞き流している感じです(笑)
祖父については、私が保育園児のころから祖父が家に来るとお小遣いをくれるので来るのを楽しみにしていましたが、その法人を作る頃になると「お前は将来後を継ぐんだぞ」とよく言われており、全くその気のない私は一応「ん~」って感じでいつも返していました。
施設が開所するとさらに両親は忙しくなり、当時の母は夜勤で夜家にいないことや、父も宿直でいなかったり、夕飯の時も仕事の話をよくしており時には「~さんはああだ、こうだ」という話もすくなくなかったので、よく出てくる職員さんの名前はまたこの人言われてる。と思ったこともありました。
そして、施設の仕事内容も少しですがわかるようになってきました。
私が高校に進学し、大学受験を考えるようになった頃、父も大学へ行かせるが卒業したら戻ってきてこの仕事をしろと言い出し、最初はそんな仕事やりたくないけど、大学へは行かせてほしいと言ってました。
そもそも、介護の仕事は汚い印象しかありませんでしたし、とにかく人の排泄介助なんて私には絶対できないと決めつけていました。
そして、私はとにかく東京へ出たかったので東京の大学しか受験しませんでしたし、結局戻ってくることを条件に大学へ行かせてもらいました。
志望学部なんてものはなかったので経営学部と、一応何校かの社会福祉学部を受けました。
社会福祉学部って意外といったら失礼ですが偏差値が高く、当時60近くありしましたので多分受からないだろうと思いましたし、受かったら知名度もある大学なのでそれはそれでいいと思っていました。
結局、社会福祉学部は全滅で、普通の私立大学経営学部に進学しました。
4年間何をしたわけではないですが、楽しく過ごさせてもらい親には感謝してます。
しかし、出てしまえばこっちのもの。卒業しても帰らないと言い張り東京で勝手に就職決めてしまいました。
もともと料理が好きだった私は、大学時代のアルバイトも最初はパチンコ屋でしたがその後は居酒屋やステーキ屋さんなど飲食店をやるとともに、お金がないので自炊をしてましたし、そこでも料理の面白さを知り料理の道へ進むことに決めました。
大学3年生の頃からは周りの友達はみんな就職活動を始め、何度も集団説明会に参加してたり、何十社と面接を受けたりして大変だなーと思ってみてましたが、当時付き合っていた彼女は大学院へ進むということで、こちらも就活とは無縁なためあまり身近に感じていなかったのも事実です。
友達から、「お前はいいよなーやりたいことが決まってて」、「お前4年制大学出てなんで料理なんてやるんだ?」、「就活は一応やった方がいいんじゃない?」などいろいろ言われましたが、もう料理人になる決意は固く、自分でレストランを探し修行の道のりを歩み始めました。
一番最初に入ったところは、銀座にあるフランス料理のお店です。
結構有名なお店で、ワインの品揃えも当時日本で数本の指に入るなんて言われていたところです。
なぜそこにしたのかというと、もともと洋食に興味があったのもありますが、面接へ行ったときに出されたコーヒーがとてつもなくおいしかったからです。
でも、結局そのお店はすぐに辞めてしまいました。
最初は給料が安いのもわかってたし、仕事も面白くはないだろうなと思ってましたが、想像以上でしたね。
というか、私の考えが甘すぎましたね。
のほほんと大学生活送ってきた私には当然の報いだと思います。
社会の厳しさを何も知らずに、いいとこだけを思い描いてしまってたからです。
その後一度、フリーターになりましたが、やはり料理人になりたいと思い再度チャレンジ、今度は和食のお店に就職を決めました。
大学卒業してから料理の修行を始めるのって年齢的に遅いんです。
年下なのに先輩なんて当たり前でしたし、そういうことも含め今度こそ覚悟を決め、そこからきちんと料理の世界でやってきました。
「なんで大学出たのに料理なんてやってるんだ?俺は勉強できないからこの世界入ったけどもったいない」なんて言う人もいました。
今でこそ、30過ぎてから独学なり修行なりして料理の世界へ行く人は増えましたが、20年以上前はまだ大学出てまで料理人にならなくて良くない?って感じはありましたね。
もちろん大学出て料理人になる人もいるのは知ってましたが、私の周りにはいませんでしたし、「おっ!大学出」んなんて皮肉っぽく言われたことも何回もありました。
その後、付き合っていた彼女に子供ができ結婚するのを機に地元へ戻ってきました。
まったく予想していなかったので、貯金もない私が東京で高い家賃を払いながら家族を養っていくのは無理だと思い地元へ戻りレストランに就職しました。
ここのレストランの待遇が結構よく10数年前ですが入ったばかりでも月30万もらえましたので、社会保険等引かれてもなんとかやっていけましたし、昇給もしてましたのでしばらくはここで働こうと思っていました。
そのころから祖父の様態が良くなくお見舞へ行ったこともありました。
それ以前も会えば「いつ帰ってくるんだ」「この仕事をやるんだろ?」といつもいわれており、よほど私にこの仕事をしてほしいんだなっと思ってました。
そして、ある日祖父が亡くなったと連絡を受け、数日後の葬儀に参加した時にはじめて祖父のやってきたことを知ることになりました。
葬儀には大勢の方が来てくれいろいろな話を聞かせてくれました。
施設を作る前から障害者支援など福祉に携わっていたことや、また、
とある障害者の会の会長もやっていたそうです。
思い返せば、私が幼いころに祖父の家へ行くと5.6人の障害者の人たちがいました。一緒に生活していたようです。
私はその頃から何の疑いもなく一緒に遊んでくれたりもしてましたし、優しいお兄さんのような存在としか思っていませんでしたが、葬儀の時にようやく事情が少しわかった気がしました。
また私の父の兄弟も2人いましたが、1人は3歳で亡くなっており(これは祖父の墓に名前と年齢が彫られていたため私の推測です。父や母には確認していません)もう1人も20歳くらいで亡くなってしまったようです。
2人とも障害があったようですが、詳しくは知りません。
祖父は、自分の子が障害者ということもあったと思いますが、それ以上にその世界に尽力してきたことを多くの方から聞かされました。
施設を作ったのも自分の土地を寄付して作ったことも聞きました。
どうしてそこまでして福祉に力を入れてきたのか、亡くなった今は聞けません。
それでも多くの方からいろいろなことが聞けました。
そして、何人かの人からは「じいちゃんはお前にやってほしがってたぞ」と聞かされ、いろんな人に「俺の孫が後をつぐんだ」と言っていたんだなと思いました。
その時に、これは会社を継ぐとかそういうことではなくて、祖父の意思を父の代で途切れさせてはいけないものなのかもしれないと思い、心が揺さぶられ介護の世界に飛び込むことを決めました。
その時両親に、ちょっと話があるから聞いてほしいと言ったら、「なんだまた東京行くのか?勝手にすればいいけど子供に大変な思いをさせるなよ。」みたいなことを言われたのを覚えています。
私の話は介護の仕事を始めたいと伝えようと思っていたのですが、両親は全くそんなことは考えていなかったようです(笑)
でも、まずは喜んでくれました。
できる出来ないは別としてですけどね。
ちなみに私の一番の親孝行はこの仕事をしている事だと思ってます。
私は自分の子供にやらせようとか思っていませんし、志のある人がいれば私の後を任せてもいいと思ってます。
でも、その時は並々ならぬ覚悟を決めなければならないという、ある種の使命感みたいなものがわいてしまったんだと思います。
はっきり言うと勢いかもしれませんが、それでも少しでも祖父の志を継いで少しでも福祉に精通し貢献できればと思ってます。
だらだらと書き留める感じで書いてしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。