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【短編小説】モーニングコーヒー

 鬱になって会社を辞めた息子が、noteというウェブサイトに投稿している。どんな大変なことがあったのか、今どんなことを悩んでいるのか知りたいと思っても、なかなかうまく話すことができていなかった。そこで息子からnoteを読んでくれれば分かると言われ、サイトに登録して、息子の記事を読むようにしている。息子のユーザー名は「さんにーいち」、自分は「百千万」にした。ちなみにコメントはしないでくれと言われていた。
 息子は主に詩を投稿している。先日はこんな記事があった。

【詩】鬱病というもの  さんにーいち
頭の疲労は毛糸玉
くるくると巻かれていく
たまってくると崩れて絡まっていく
そんな時は心が助けてくれる
ゆっくり絡まりをほどくように
落ち着いた時間を与えてくれる

心の疲労は水風船
だんだんと膨らんでいく
たまってくると破けて弾けてしまう
そんな時は頭が助けてくれる
水がすっきり流れるように
汗や唾液や笑い涙に変えてくれる

でも 頭と心の疲労が
同時にいっぱいたまってしまうと
毛糸玉はぐしゃぐしゃに絡まり
水風船は破裂し大量の水を流す
頭は何も考えをまとめられず
心は涙を流し続ける
そもそも頭と心の指令を受ける身体は
どうにも思うようには動かなくなってしまう
そう それが鬱病というもの

 詩としてどうなのか分からないが、スキ(「いいね」のようなもの)を八つもいただいている。鬱に対して考えるという形で自分と向き合っている息子を応援してくれる人がいるのだ。それはとてもうれしいことだし、何より息子がしっかり自分の病気と向き合っていることは喜ばしいことだった。
 こんな詩も記事としてあげていた。

【詩】ホンネ  さんにーいち
もう歩けない
本当は 一歩前に踏み出したい
もう走れない
本当は ずっと前を向いていたい
もう動けない
本当は もっと自由を謳歌したい
もう死にたい
本当は もっとうまく生きていたい

最近ポロっと口から洩れそうになる言葉が、実は本音の裏返しだと気付けるようになりました。

 うつ病とはいえ、息子が死にたいと感じていると知ったときは、親として悲しく、そして不甲斐なかった。責任も感じたが、それは具体的ではなく、ただ「親としての責任」といった感じだった。女房が出て行ってからというもの、自分が息子の全責任を背負う、という漠然とした覚悟を持っていたのだ。それを伝えると、息子からはそんなものを背負うのはやめてくれと言われ、落ち込んだりもした。
 いずれにせよ、もっとうまく生きていたい、でもそれができなくて死にたい、つまりは「うまく生きたい」が本音と気付いてくれたことに、大変ホッとしたものだった。
 詩としての出来もなかなか良いのか、スキの数も十を超えている。これが息子の励みになってくれればいいな、と思う。

 先日、息子が応援している青山大学駅伝部の三年生が亡くなった。もともと息子も陸上部だったこともあり、かなりショックは大きかったのだろう。noteでのニュース記事を引用し、こんな詩を書いていた。

【詩】星はいつも輝いている  さんにーいち
こんな弱い僕にとって
夜の闇は深く狂わしい
でも あの星の輝きは
彼が強く生きた証
その星は いつもそこに輝いている
永遠に そこに輝いている
その星が輝いている限り
僕も強く生きたいと願う

「強く生きたい」という文字が、一瞬涙で滲んだ。息子は夭折した駅伝ランナーを偲びながら、生きるということに真摯に向き合っていた。だから、もう大丈夫だろう、と思っていた。
 そんな矢先だった。昨日、息子が入院したと連絡を受けた。希死念慮が強く、自ら担当医に相談し、一時入院となったのだった。

【詩】魅惑  さんにーいち
もう苦しまなくていい
そんな想いは
消極的動機だろうか
突然 死が魅惑に満ちたものに感じられたのだ
だって もう苦しまなくていいというのだから

 入院したその日の夜に、こんな詩を投稿されてしまった。こんな思いが湧き起こり、それに息子自身が恐怖を感じての入院だろう。だから大丈夫、だから大丈夫……。そう自分に念じながら、全く眠れなくなってしまった。
 息子は今、病院のベッドで魅惑に満ちた死に思いを寄せているのだろうか。それとも、強く生きた証の輝く星を思い出してくれてはいないだろうか……。
 春が近づきつつあったが寒の戻りがあり、何しろ風が強い夜だった。風はガタガタと窓ガラスを打ち、時々ザーッと大きな音を立てて近くの木々を横殴りにしていった。
 眠れない、眠れない、と思いながら、いつしか僕は眠りについていた。
 と、僕は電話が鳴ったように感じ、飛び起きた。しかし、それは気のせいだった。時計を見ると五時四十五分。すると、東の空が明るくなり始めていることに気付いた。
 次の瞬間、「わー」と声には出さないが口をあんぐりと開いて、カーテンを開けた。風が雲だけでなく、空気中の汚れをすべて吹き飛ばしていた。そしてその風も収まっていた。空はほんの少し頭を出した太陽の光を真っ赤に映し出し、その明るさが上空に鮮やかな藍色を映し出していた。右手に見える三日月は、くっきりと童話的な形を輝かせていた。
 僕はスマホで写真を撮った。この写真を息子に見せたい、そう思った。この美しさをどう感じるだろう……。ただ、見たままの美しさを写し出すことは難しかった。
 もう朝を迎えた。息子は大丈夫だったのだ。そう思って、コーヒーを淹れた。大好きなマンデリンフレンチを濃く入れて、コーヒーフレッシュだけを入れてかき混ぜる。深い香りと上品な苦みと豆の甘さとほんのりミルクの甘さを楽しむことができる。僕はコーヒーを片手にもう一度窓際に座った。朝の空はすぐに移ろいでしまう。もう、朝特有の柔らかい光が空を満たし始めていた。
 今撮った空の写真を確認しようと、スマホを手に取った。しかし、ふと気になって、noteを開いた。やっぱり息子が何か投稿していた。詩ではなく、つぶやきだった。はやる気持ちを抑えて記事を開く。

二月二十日、朝五時四十五分の空。トイレに行こうとしていたことも忘れ、慌てて写真を撮りました。なんて美しいのだろう。
思い出したのが、昔のアメリカの医療ドラマ。最後に朝日を見て死にたいという患者の願いを叶え、患者は朝日を見ながら穏やかな顔で息を引き取る。涙が止まらなかった。
積極的に生きる理由が見つかりました。朝を迎えられる限り、僕は朝を迎える。それを自ら止める理由は、もう見つからない。朝の美しさを知ってしまったから。

 僕は涙を流れるままにしながらコーヒーをすすった。何とも言えない美味しさだった。息子にはあとで怒られるかもしれないが、コメントをすることにした。

百千万
2/20 06:18
私も全く同じ時間に、同じ東の空を眺めていました。さんにーいちさんに見せたいと写真を撮りましたが、さんにーいちさんの写真の方がよく撮れています。素敵な朝を迎えられたら是非コーヒーを飲んでください。コーヒーはモーニングコーヒーが一番おいしいです。

さんにーいち 
2/20 06:23
百千万さん、コメントありがとうございます。ただ、モーニングコーヒーは身体によくないという説もあります。

「腹の立つやつだ」
 僕は一人呟いて、一人笑った。

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