〈生権力-再生産的未来主義〉から零れ落ちるもの あるいは田舎.論考
アンチ.ラッパ
欲望機械は綻び、器官なき身体/死の欲動へと突き進む我が身体に、マゾヒスティックな「寂び」を感じる。「美」が途絶えていくのを感じる。いずれ、パラノイアでメタレベルな「寂び」の感覚も薄れていき、統合が失調して、分裂し、ただ、生きる、羽目になるのだろう。
「器官なき身体/死の欲動は非生産的なものである」とあるように、ドゥルーズ.ガタリは「目的」のごときものを否定した。ドゥルーズは「生きることそのもの」を肯定した人だった。というのも、しかし、ミシェル.フーコーやドゥルーズが予言していた悪夢/ナイトメアのシナリオが成就している時代を我々は生きる。マーク.フィッシャーが「資本主義リアリズム」といった終わらない悪夢も、それの延長線にある。この世界に残された出口はない。
ゲートとゲートは電磁波で接続され、我々の大地の彼方には、夥しい数の人工衛星が飛び交い、集積されたデータからデジタル.ツイン/メタバース(世界2.0)を形成し、GPSという時空の歪みの審判によって至るところに秒針が与えられる。「ゼロから構築される規律」から「計数的な管理」へ(『記号と事件』)。この徹底的な管理体制という悪夢/ナイトメアの底でバッドトリップに陥った者、あるいはニルヴァーナ/悟りを開きこの悪夢が終わったなどとほざく者がいたものなら、「それってあなたの感想ですよね?」で終わり、薬を処方される(再帰的無能感)。つまりは「規律」も「管理」もある前提を、いわゆる「死を与える権力から、生きさせる権力」を置いている(『性の歴史』)。アガンベンはこう言う。
「生きることそのもの(ドゥルーズ)」が許されない訳である。
そして、リー.エーデルマンのいう「再生産的未来主義」とはこの意味での「生権力」に他ならない。
身体刑から監獄へ移行した時に生まれたもの=「規律.訓練」はこの権力の原型であり、同じ問題意識の上に書かれていることは間違いがない。
見せしめとしての神聖な、「身体刑の華々しさ」、罪人自体への視線から、遺伝子や環境の特定といった非人間的統計的な、社会の矯正装置が生まれたのであり、生権力とはそれの極地である。
そして、生きるに値しない者/再生産が不可能な者=狂人が排斥されることは言うまでもない(フーコーは同性愛者である)。
未来の再生産は「慣性の法則」に過ぎず、慣性に抗うことが哲学の運動ではなかったか。
そういえば、哲学の起源=ソクラテスも社会の慣性を懐疑しまくったことで(アイロニー)処刑されたのだった。「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方が容易い」と言って死んでいったあの預言者の言葉=声/フォネーが100000000年後に頓挫し、果たして、世界は静寂に包まれているのだろうか。
誤配、再生産、失われた精液
ところで、田舎には哲学.思想.批評は、ない。今まで、それらの話をしている人を見たことがないし、書店でも、人文書を手にとる人はまずほぼいない。ところで、出版業界.論壇は、コネであり、言論人の出身地をみてもほとんどが東京であり、それは海外でも同様だろう。親ガチャ的決定論。マルクスは国家とはブルジョアによる支配装置であるみたいなことを言っていた。
それと同様に、言論には民主主義/デモクラシーが、ない。田舎で生まれた時点で、その精子=言論は、都会という卵子=論壇と受精することはほぼあり得ない。田舎で生まれた時点で、「未来なし ノー・フューチャー」な訳である。東京至上主義に再生産される未来=言論。私の言論を東浩紀が取り上げる(受精)ことなどあり得ない訳で、それは実質的には、既得権益による独占とそれ以外の「禁書化」という現象が起きているのだ。そもそも「資本主義リアリズム」とはそういう現象である。「商品の命懸けの飛躍(マルクス)」から貨幣に覆われたグローバル資本主義へ。
禁書に限らず、歴史は、不可視化された弱者の痕跡を残している。この進化論的時間論を批評する「ロシア宇宙主義」は、そのような未来主義から離れて、失われた死者の復活を唱える。
ここにあるのは、時空を超えた民主主義/デモクラシーである。
最後に
snsをもうちょっと活用する、ゲンロンカフェにでも行ってみる、、、なんでもいいけど、最近、無、で時間だけが過ぎていくので、行動/アクションを起こしていこうかな。。。
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