龍樹『根本中論頌』第6章:「煩悩の検証(Rāgarakta-parīkṣā)」



導入

私たちは欲望や怒り、迷いといった「煩悩」に苦しむことがあります。
では、その煩悩は本当に「心の中にある」ものなのでしょうか?
もしそうならば、心が生じる前から煩悩は存在しなければなりません。
本章では、煩悩の実体について問い直し、それがどのように成立しているのかを考察します。


現代語訳

1. 煩悩(ラガ)とは何か?

煩悩とは、どこから生じるのか?
もし煩悩が実体として存在するならば、
それは過去・現在・未来において変化せず、
常に同じであるはずである。
しかし、煩悩は条件によって生じ、
また、条件がなくなれば消えるものではないか?

2. 煩悩は心の中にあるのか?

煩悩は、心の内にあるのか、それとも外にあるのか?
もし心の中にあるならば、
心が生じる前に煩悩も存在しなければならない。
しかし、心がなければ煩悩も生じないのであれば、
煩悩は 「心の中にある」とは言えない のではないか?

3. 煩悩はどこに属するのか?

煩悩は、私たちの行動に属するのか?
もし行動に属するならば、
行動がなくなれば煩悩も消えるはずである。
しかし、煩悩がすでに存在しているならば、
行動を起こさなくても煩悩は消えないことになる。
では、煩悩は行動とは別のものなのか?

4. 煩悩が実体を持たない理由

もし煩悩が本当に実体を持つならば、
それは原因があろうとなかろうと、
変わることなく存在し続けるはずである。
しかし、煩悩は「対象」によって生じ、
対象がなければ消えるものである。
ならば、煩悩とは実体を持たず、
ただ因縁によって現れる仮の存在なのではないか?


要約:「煩悩は固定されたものではない」

  • 煩悩は、固定された実体を持たず、条件が揃ったときにのみ生じる

  • もし煩悩が 本当に実体を持つならば、永遠に変わらず存在し続けるはず だが、実際には消えたり生じたりする。

  • 煩悩は「心の中にある」とも、「行動の中にある」とも言えず、縁起によって現れるもの である。

  • このことから、煩悩もまた「空」である ことが示される。


注釈・補足

煩悩とは何か?

仏教では、煩悩(ラガ:rāga) は、私たちの苦しみの原因とされる。
主な煩悩には、次のようなものがある。

  • 貪(とん:rāga) – 欲望や執着

  • 瞋(じん:dveṣa) – 怒りや憎しみ

  • 痴(ち:moha) – 無知や迷い

ナーガールジュナは、これらの煩悩が 実体として存在するのか を問い直す。

煩悩の生じる条件とは?

ナーガールジュナは、「煩悩がどこから生じるのか?」という問いを投げかける。

  • もし煩悩が 固定された実体を持つならば、常に存在し続けるはず である。

  • しかし、実際には 条件が揃ったときにのみ生じ、条件がなくなると消える

  • つまり、煩悩は それ自体で存在するのではなく、縁起によって生じるもの である。

「心の中の煩悩」という思い込み

一般的に、私たちは「煩悩は心の中にある」と考える。
しかし、ナーガールジュナは次のように問いかける。

  • もし煩悩が「心の中」にあるならば、心が生じる前から煩悩も存在しなければならない。

  • しかし、心がない状態では、煩悩も生じない。

  • ならば、「煩悩は心の中にある」とは断言できないのではないか?

これは、煩悩すらも固定的な存在ではなく、条件によって現れるもの であることを示している。


締めくくり

次の第7章では、「行為(カルマ)」について考察します。
私たちは「行為が結果を生む」と考えますが、
行為と結果の関係は本当に固定されたものなのでしょうか?
行為(カルマ)の実体を論じていきます。

この「煩悩の検証」を読んで、皆さんはどのように感じましたか?
ぜひコメントで意見を共有してください!

いいなと思ったら応援しよう!