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龍樹『根本中頌』第16章:「主観と客観の区別の検証(Grāhya-grāhaka-parīkṣā グラーヒャ・グラーハカ・パリークシャー)」(サンスクリット語訳)
導入
日常的に私たちは、「見る者(主観)」と「見られるもの(客観)」という区別を無意識のうちに行っています。しかし、この区別は実際に固定されたものなのでしょうか? もし「見る者」が独立して存在し、「見られるもの」も独立して存在するならば、その間に交流は存在しないはずです。本章では、「主観」と「客観」の関係がどのように相互に依存しているのかを探り、その区別の本質について深く考察します。
現代語訳
1. 主観と客観は独立して存在するのか?
「見る者」としての主観が独立して存在するならば、それは「見られるもの」がなくても存在できるはずです。
同様に、「見られるもの」としての客観も、見る者がいなくても存在できるはずです。
しかし、実際には、見る者なしに見られるものを認識することはできず、見られるものなしに見る行為も成立しません。
2. 主観と客観の相互依存
もし主観が客観なしに成立するならば、それは何を見るのか?
逆に、客観が主観なしに存在するならば、それは誰によって認識されるのか?
結局、見る者と見られるものは相互に依存しており、一方が他方なしには存在し得ない。
3. 見る行為の瞬間はどこにあるのか?
見るという行為は、常に進行中のものであり、完了することはありません。
「見ている」と感じるその瞬間にも、主観と客観は連続的に影響し合っています。
したがって、見るという行為そのものが独立した実体を持つわけではなく、常に変動している過程です。
4. 主観と客観の実体性の否定
主観も客観も、独立した実体としては存在せず、相互の関係性の中でのみ意味を持ちます。
この両者は、実際には縁起によって成り立っており、分けて考えること自体が一種の錯覚です。
したがって、主観と客観の区別もまた「空(śūnyatā シューニャター)」であり、実体はない。
要約:「主観と客観は固定されたものではない」
主観と客観は互いに依存し合うことによってのみ存在し、独立した実体ではありません。
この相互依存性は、それらが実体として存在しないことを示しています。
主観も客観も、縁起によって成り立つ仮の存在であり、常に変化し続けるものです。
注釈・補足
主観(グラーヒャ)と客観(グラーハカ)の関係性
仏教哲学では、認識される対象(客観)と認識する主体(主観)は、それぞれ独立して存在するものではなく、互いに関連し合うことで成り立っています。この相互依存は、「見る者」が「見られるもの」なしに存在することができず、「見られるもの」もまた「見る者」なしには意味を持たないことを示しています。
締めくくり
次の第17章では、「空性(シューニャタ)」について深く掘り下げます。
すべての現象が「空」であるという仏教の教えに基づき、物事の本質的な「空性」を詳しく説明します。
💡 最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
主観と客観の区別について、皆さまはどのようにお考えでしょうか?
また、本記事の内容でわからない部分やご質問がございましたら、
ぜひコメントにてお知らせください。できる限り詳しく解説させていただきます。