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龍樹『根本中頌』第11章:「運動の検証(Gati-parīkṣā ガティ・パリークシャー)」(サンスクリット語訳)



導入

「移動する」ということは、日常的に当たり前の概念として受け入れられています。
しかし、「行く(gati ガティ)」という行為が本当に実体として存在するのでしょうか?
何かが「行く」ためには、それはすでに移動を始めているのか、これから移動するのか、あるいは今まさに移動しているのか、どれかでなければなりません。
しかし、移動している瞬間を切り取ると、その「行く」という行為はどこにあるのでしょうか?
本章では、運動という概念がどのように乖離(かいり/本来の状態から離れ、隔たること) しているのかを探ります。


現代語訳

1. 「行く」という行為はどこにあるのか?

何かが「行く」と言うとき、
それはどのような状態を指すのか?

  • まだ行っていないものが「行く」と言えるのか?

  • すでに行ってしまったものが「行く」と言えるのか?

  • もし、「行っている最中」が「行く」ならば、
    その瞬間はどこにあるのか?

2. 「行く」と「行った」の区別はあるのか?

「行く」ことが本当にあるならば、
「行くもの」と「行ったもの」の間には
明確な区別があるはずである。
しかし、「行く」と「行った」の区別は、
どの瞬間に生じるのか?
もし、移動している最中であれば、
「行く」ことと「行った」ことは同時に起こることになるのではないか?

3. 「行くもの」と「行かれるもの」の関係

何かが「行く」ためには、
その対象として「行かれるもの」があるはずである。
しかし、行かれるものが先に存在するならば、
それはすでに行ったものではないのか?
逆に、行かれるものが存在しないならば、
「行く」という行為は何によって成立するのか?

4. 「行く」という概念の実体性

もし「行く」という行為が実体として存在するならば、
それはどこにでも成り立たなければならない。
しかし、実際には、
「行く」という行為は、
時と場合によって成立したりしなかったりする。
ならば、「行く」という概念そのものが、
縁起によって成立する仮のものであるのではないか?


要約:「運動は実体として存在しない」

  • 「行く(gati ガティ)」という行為は、固定されたものではない。

  • もし「行く」が実体として存在するならば、「行った」との区別が曖昧になってしまう。

  • 「行くもの」と「行かれるもの」が互いに依存しているならば、それ自体は固定されたものではない。

  • つまり、「行く」という行為は、独立したものではなく、
    縁起によって成立するものであり、実体を持たない(空)」


注釈・補足

運動(ガティ)の哲学的問題

ナーガールジュナは、「運動とは何か?」という問いを通じて、
「移動する」という概念が本当に成立するのかを探求する。

私たちは、「何かが移動する」と考えるが、

  • もし 「移動していないもの」 が「移動する」ならば、それは矛盾である。

  • もし 「移動したもの」 が「移動する」ならば、それも矛盾である。

  • ならば、「移動する」とは、一体何なのか?

このように、運動という概念が明確な実体を持たないことを示している。

「移動の瞬間」はどこにあるのか?

時間の中で「移動している瞬間」を切り取ると、
それは「まだ移動していない」か「すでに移動した」かのどちらかになってしまう。
しかし、「移動の最中」である状態を、
どの瞬間に確定できるのか?

  • 「行っている最中」という瞬間があるならば、それはすでに行ったものなのか?

  • それとも、まだ行っていないものなのか?

この問いを通じて、「運動」という概念そのものが、
私たちの認識の中でのみ成立している可能性 を示唆している。


締めくくり

次の第12章では、「結合(サンガティ)」について検討します。
物事が結びついているということは、本当に確固たる事実なのでしょうか?
結合の本質について詳しく考察していきます。


💡 最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。
運動の概念について、皆さまはどのようにお考えでしょうか?
また、本記事の内容でわからない部分やご質問がございましたら、
ぜひコメントにてお知らせください。できる限り詳しく解説させていただきます。


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