龍樹『根本中頌』第3章:「知覚と実在の検証(Cakṣurādīndriya-parīkṣā)」
導入
「目に見えるものは確かに存在する」――私たちはそう信じています。
しかし、「見る」という行為は本当に独立したものなのでしょうか?
もし「見るもの」がなければ、「見る」という行為は成り立たず、また「見る」という行為がなければ「見られるもの」も存在しないのではないでしょうか?
本章では、「知覚によって捉えられる世界の不確かさ」 を論じ、実在の概念を問い直します。
現代語訳
1. 目に見えるものは本当に実在するのか
目が見るものは、本当に存在するのか?
もし、見るという行為がなければ、
対象としての「見られるもの」もまた存在しない。
しかし、見るものが存在しないならば、
「見ている主体」もまた成り立たないのではないか?
2. 目は自分自身を見ることができるのか
目は、それ自体を直接見ることができるのか?
もしそうなら、目が目を見るということになり、
それは同時に「見られるもの」であり「見るもの」となる。
しかし、「見る」と「見られる」が同じものであれば、
この区別は何によって生じるのか?
3. 目が見るためには、見られるものが必要なのか
もし目が何かを見るためには、
対象が必要であるならば、
「見る」という行為は、
見られるものに依存していることになる。
しかし、見られるものが存在しなければ、
見るという行為自体が成立しないのではないか?
4. 知覚は本当に確かなものなのか
目で見たものが本当に存在するならば、
それは見ることなくしても存在するはずである。
しかし、目で見たものが存在するのは、
あくまで「見る」という条件が整っているときだけである。
ならば、その「見る」という行為がなければ、
対象としての「見られるもの」は、本当にあると言えるのか?
注釈・補足
「見る」という行為の不確かさ
ナーガールジュナは、「見ること」と「見られるもの」の関係 を問い直す。
目があるから「見る」という行為ができるのか?
それとも、「見られるもの」があるからこそ、「見る」という行為が成立するのか?
この二つが互いに依存しているならば、
「見る」と「見られる」のどちらも、独立した存在ではない ことがわかる。
「目が自分自身を見る」ことの不可能性
ナーガールジュナは、「目は自分自身を見ることができるのか?」と問う。
もし目が自分自身を見られるならば、
「見るもの」と「見られるもの」が同一である ことになる。しかし、「見るもの」と「見られるもの」は、
通常、別々のものとして成立する ため、
同時に成立することは矛盾である。
つまり、「見る」という行為は、
「見られるもの」があって初めて成立する のであり、
その逆もまた成り立つ。
「知覚が依存している」という考え方
私たちは、「見たものは確かに存在する」と思い込んでいる。
しかし、ナーガールジュナは、
「見る」こと自体が、見られるものに依存している ことを示す。
これにより、知覚というものが、
絶対的なものではなく、縁起によって成り立っている ことが明らかになる。
要約:「知覚の不確かさ」
目が見るものは、本当に実在するのか?
目は自分自身を見ることができない。
「見る」という行為は、「見られるもの」がなければ成立しない。
逆に、「見られるもの」は、「見る」という行為がなければ認識されない。
よって、「知覚されたものの実在性」は、根拠のないものとなる。
解題:「知覚とは何か?」
知覚に対する疑問
私たちは、「目に見えるものは存在する」と考える。
しかし、ナーガールジュナは、
「見ること」と「見られること」は、
互いに依存していることを示す。
もし、見られるものがなければ「見る」という行為は成立しない。
また、見るという行為がなければ、「見られるもの」は意味を持たない。
このことから、「見えるものの実在性」そのものが疑われる。
締めくくり
次の第4章では、「五蘊」について検討します。
私たちは「自己」を持っていると感じますが、
自己は五つの構成要素(五蘊)によって成り立っていると説かれます。
では、その五蘊は本当に実体として存在するのでしょうか?
この「知覚と実在の検証」を読んで、どのように感じましたか?
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