龍樹『根本中頌』第2章:「生死の流転を超える」サンスクリット語訳



導入

「生まれる」とは何か?「死ぬ」とは何か?
私たちは「生と死」を明確なものと捉えますが、それは本当に実体として確立しているのでしょうか?
ナーガールジュナは、「生じること」と「滅すること」を分析し、生死の概念そのものが縁起による仮の存在 であることを示していきます。


現代語訳

1. 「生まれる」ことは本当にあるのか

「生まれる」とは、一体どういうことなのか?
すでに生じたものは、再び生まれることはない。
また、生じていないものも、生まれることはない。
「生まれる」とは、いったい何を指すのか?

2. 生じる瞬間はどこにあるのか

過去に生じたものは、もうすでに「生まれた」ものである。
未来に生じるものは、まだ「生まれていない」。
現在に生じるものは、まさにその瞬間にあるものか?
だが、「生じる」という動きがあるならば、
その「瞬間」とは、いったいどこにあるのか?

3. 「生」と「滅」は同時に起こるのか

もし、「生じること」と「滅すること」が同時であるならば、
すべては、瞬時に消滅してしまうことになる。
もし、「生じること」と「滅すること」が異なるならば、
「生じたもの」が「生じること」になり、
終わりのない矛盾に陥ってしまう。

4. 生まれたものはどこへ行くのか

生まれたものは、どこへ向かうのか?
生じたものが「行く」とすれば、それはすでに「生じた」もの。
生じていないものが「行く」とすれば、それはそもそも存在しない。
では、「行く」ということ自体が成立しないのではないか?


注釈・補足

「生まれる」とは何か?

ナーガールジュナは、「生まれる(生)」という概念自体を問い直している。
普通、私たちは「生じるもの」があると考えるが、

  • すでに生じたもの は、もはや「生じる」ものではない。

  • まだ生じていないもの は、「生じる」ということが起こり得ない。

  • では、「今まさに生じているもの」は、どのように定義できるのか?

このように考えていくと、
「生じる」という概念自体が曖昧であることが分かる。

「生じる瞬間」の不確かさ

過去・現在・未来のいずれにおいても、
「生じる」という動きが捉えられない。
これは、仏教の「縁起」と「空」の教えに基づいている。
すべてのものは、固定された実体を持たず、
単独で「生じる」ことはあり得ない、という考えである。

「生と滅」は同じなのか、異なるのか?

  • もし「生じること」と「滅すること」が 同じ ならば、
    何かが生まれた瞬間に消えてしまうため、
    この世に何一つ存在しなくなってしまう

  • もし「生じること」と「滅すること」が 異なる ならば、
    それは 「生じたもの」が再び「生じる」という矛盾 になる。

このように、「生じること」そのものが、
確固たるものではないことが分かる。


要約:「生と滅の矛盾」

  • 何かが「生じる」ということは、本当に可能なのか?

  • すでに生じたものは「生じる」ことができない。

  • まだ生じていないものも、「生じる」とは言えない。

  • すると、「生じる」という概念自体が成り立たなくなる。

  • これは、「生も滅も固定されたものではない(空)」という教えにつながる。


解題:「生死の境界を超える」

「生じる」という思い込み

普段、私たちは「生じる」ということを当たり前だと思っている。
しかし、ナーガールジュナは、「生じること」とは何なのかを問い直す。
もし、すべてのものが固定的に「生じる」ならば、
過去・未来・現在のいずれにおいても、それは変わらないはずである。
しかし、実際には、「生じる」という現象は曖昧であり、
本質的なものではない。

「生死を超えた視点」

この考え方は、「生まれること」に執着しない智慧につながる。
生じることが実体を持たないのであれば、
「死ぬこと」にもまた、固定的な意味はない。
つまり、「生まれる」「死ぬ」という区別は、本来は存在しない ということになる。


締めくくり


次の第3章では、「知覚と実在」について検討します。
私たちは目に見えるものを「確かに存在する」と思いがちですが、
「見ること」と「見られること」は本当に実体として存在するのでしょうか?
知覚によって捉えられる世界の不確かさを論じていきます。

この「生死の流転」を読んで、皆さんはどう思いましたか?
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