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看板俳優は96歳。「老いと演劇」が映し出すコミュニケーションの本質

看板俳優の岡田忠雄さん、通称「おかじい」は96歳。脇を固めるのは、地域に住む認知症のお年寄りや発達障害の若者たち。そんな"常識外"の劇団が、岡山県奈義町にある。

「老いと演劇」の劇団OiBokkeShi(以下、オイボッケシ)は、東京で俳優・介護福祉士として活動していた菅原直樹さんが2012年に岡山県に移住し、立ち上げた。年数回の演劇公演のほかに、認知症ケアに演劇的手法を取り入れたワークショップなども実施。超高齢社会の課題を演劇というユニークな切り口でアプローチする活動が、多方面から注目を集めている。

それにしても、オイボッケシの取り組みは僕らの常識をいろいろと揺さぶってくる。認知症の人との共同生活はただでさえ大きな困難を伴うはずなのに。演劇として本当に成り立つのか。長いセリフを覚えたり、台本通りに演じたりすることが可能なのだろうか。菅原さんはこう語る。

「予想外のことはたくさん起こります。でも、そうやって否応なく発生する『ずれ』をいまは楽しめるようになりました。むしろそこから生まれる新しい表現があるのではないか。それをみんなと一緒に見つけることに僕のモチベーションがあります」

家族、友人、仕事の同僚......。どれだけ心を許していても、みな自分とは違う人間である以上、コミュニケーションには必ず「ずれ」が生じる。その「ずれ」とどう向き合えばいいのかは、認知症患者とその周辺の問題ではなく、僕ら自身の切実な問題だ。

今回は菅原さんの話から、「異なる」「個」との関係の結び方を考える。

菅原直樹さん

1983年栃木県宇都宮生まれ。桜美林大学文学部総合文化学科卒。劇作家、演出家、俳優、介護福祉士。「老いと演劇」OiBokkeShi主宰。四国学院大学非常勤講師、美作大学短期大学部非常勤講師。平田オリザが主宰する青年団に俳優として所属。

介護と演劇は相性がいい

──まずは菅原さんの活動について教えてください。「老いと演劇」の劇団オイボッケシを立ち上げることになった経緯は?

オイボッケシという名前はお察しの通り「老い」「ぼけ」「死」から来ています。一般に「老いる」「ぼける」「死ぬ」には悲しいとか重いとか辛いとかいったマイナスのイメージがあるのではないでしょうか。でも、僕は20代だったころにしばらく特別養護老人ホームの介護職員として働いていました。そこで多くのお年寄りと接しているうちに「老い」「ぼけ」「死」から得られる大切なこともあると気づいたんです。

その気づきが、僕をよりよく生きようという気にさせたと言いますか。それまでは千葉県に住み、東京で演劇活動をしていたのですが、2012年に岡山に移住。介護現場で見た「老いの豊かな世界」を演劇を通じて地域の方々に発信できたらと思い、劇団オイボッケシを立ち上げました。

活動のきっかけは「介護と演劇は相性がいい」と思ったこと。一つは「お年寄りほどいい俳優はいない」という実感。もう一つは「介護者は俳優になった方がいい」という実感。この二つの実感があり、介護と演劇は相性がいいのではないかと思うようになりました。

──詳しく教えてください。

まず「お年寄りほどいい俳優はいない」という実感についてですが、お年寄りがゆっくりと歩いている姿を見て、それだけで劇的だと感動を覚えたのです。ただ歩いているだけで観客を惹きつけるお年寄りは、最高のパフォーマーであると感じました。

みなさん80年、90年と生きている方々ばかりなので、それぞれに人生のストーリーがある。シベリア抑留の経験のある人。満州で青春時代を過ごした人。女性初の警察官になったという人もいました。老人ホームには、かつていろいろな肩書きを持っていた人たちの人生が詰まっていた。そうしたお年寄りに舞台上をゆっくり歩いていただき、その背後に字幕で人生のストーリーを流すだけで、立派な演劇になるように思えたのです。

加えて、老人ホームで日々、認知症の方や寝たきりの方と接していると、「生きるとは何か」「死ぬとは何か」「老いとは何か」「コミュニケーションとは何か」といった根源的な疑問と向き合う機会が増えていきます。それは表現する者にとってすごく意義のあることではないかという実感もありました。

そういうわけで、オイボッケシではお年寄りと一緒に芝居を作っています。看板俳優の岡田忠雄さん、通称「おかじい」とは、彼が88歳の時に出会いました。最初は僕らがやっている演劇ワークショップに参加してくれたのですが、それから9年が経ち、96歳になったいまも現役で舞台に立ってくれています。

正すのではなく受け入れる

──96歳で現役というのもにわかに信じ難いのですが。「おかじい」との出会いのきっかけになった演劇ワークショップについても伺えますか?

こちらは「介護者は俳優になった方がいい」という実感がもとになっています。介護職員として働いている中で、認知症の人と関わる際には演技がすごく有効なのではないかと感じていました。

認知症の中核症状の一つに見当識障害があります。これは要するに、いまがいつで、ここがどこで、目の前の人が誰なのかがわからなくなるということ。そのため、孫を別の人と勘違いしたり、朝なのに夜だと勘違いしたりという「ずれ」が生じるようになります。それに対して、間違いを正したり失敗を指摘したりするのではなく、役を演じるかのごとく受け入れる関わり方もあっていいのではないか、と。

その実感をもとに始めたのが認知症をテーマにしたワークショップです。参加者は一般の方々で、必ずしも身内に認知症患者がいるわけではありませんが、演劇体験を通じて日常のコミュニケーションに意識的になってもらえたらと思い、こうした活動をしています。

──「受け入れる関わり」について、もう少し伺いたいです。

正すのか、受け入れるのか。僕自身がこの問いと最初に向き合うことになったのは、高校生の時でした。当時同居していた認知症の祖母が、「タンスの中に人がいる」と言い出したり、家の前を車が通るたびに「お迎えが来た。私は彼と一緒に出かけるんだ」と言って徘徊したりするようになって。こうした祖母のずれた言動に対して、間違いを正すべきなのか、それとも受け入れるべきなのかで結構悩みました。

当時の僕は正すコミュニケーションを選んでいました。間違いを正せば元のしっかりしたおばあさんに戻ってくれるのではないか、受け入れる対応をしたら認知症の症状が進んでしまい、次は「喋る犬」、その次は「空飛ぶおじさん」と、どんどんすごい世界へ行ってしまうのではないかという気がしたのです。

けれども、その後介護の仕事に就き、日々認知症のお年寄りと接しているうちに、やはり受け入れるべきだと思うようになりました。延々と間違いを正すのは、言い負かそうとしているようで、こちらとしても気分が悪い。一方で、否定され続けた方としても傷つくはず。正す接し方では、お互いに幸せになれないと思ったのです。

認知症というのは認知の機能障害であって、感情の障害ではありません。であれば、感情に寄り添う接し方、すなわち受け入れる方がいいのではないか。そう考えて、僕らの常識に照らせば間違っていることも、時には受け入れる演技をするようになりました。

──なるほど。「受け入れる」とは、感情に寄り添うということなんですね。

ワークショップではこれを疑似体験することで、日常のコミュニケーションを見直すきっかけにしてもらっています。

よくやるのは「イエスアンドゲーム」と呼ばれる即興演劇の手法です。二人一組になり、一人には認知症のお年寄り役、もう一人には介護職員役をやってもらいます。介護職員の「ご飯の時間ですよ」という声掛けに対し、認知症役の人は、例えば「旅行に行きたい」などとずれた発言をします。

「いやいや、いまはご飯の時間ですから」と思わず否定したくなる場面ですが、介護職員に許されているのは「イエス=肯定」と、相手の願望を実現したりよりよくしたりする「アンド=提案」だけ。「いいですね。じゃあ車を借りる手配をしますか」などと返します。こうしたやりとりを何回か繰り返す。シンプルなルールですがやってみると意外と難しく、結構盛り上がるんです。


次に、その逆もやってもらいます。介護職員役の人は、相手のずれた発言に対して、否定して現実に引き戻す。例えば「ご飯の時間ですよ」「主人とデートに出かけるの」「いやいや、ご主人は亡くなっていますよ。いまはご飯の時間です」といった調子です。

認知症役の人には「相手の対応を受けて感じた気持ちを次の言動に反映させる」というルールを設けます。相手の説得を受けて「そうか、ご飯の時間か」と思ったならそれに応じてもいい。応じたくないと思えば反発してもOKです。するとどうなるか。90%以上の人は、否定されるほどに頑なな態度になっていくんです。

心のカチンコを鳴らせ

──否定されるほどに頑なになる。わかる気がします。

介護職員としても、悪気があって否定しているわけではありません。「ご主人が亡くなっている」のは事実ですし、「ご飯の時間です」というのも相手を思ってのこと。けれども、良かれと思ってしたことが逆効果になってしまうのです。

ここからわかるのは、説得は意味をなさないということです。相手の言うことを否定ばかりしていては、反発を招くだけ。それよりは、逆に受け入れるコミュニケーションをしてみてはどうかと。それで信頼関係が築けたら、「この人は私の話を聞いてくれる。私もこの人の言うことを聞いてみようか」と思ってもらえるかもしれない。二人で何かをすることだってできるかもしれません。

──同じような場面は日常生活にもありますね。

さっきの「イエスアンドゲーム」には最後にオマケがあります。別の人を加えて「亡くなったご主人」を演じてもらい、もう一度否定バージョンでやってみるんです。すると何が起こるか。

見ている人からすると、前回は「いないのに、いる」と言い張る認知症役の人の方が「おかしな人」として映ったはずです。けれども今回はその逆。「いるのに、いない」と言い張る介護職員の方が圧倒的に「おかしな人」として映る。行われているやりとりとしてはまったく同じなのに、見え方が変わってくるわけです。

認知症にもいくつか種類がありますが、レビー小体型認知症の中核症状は幻視です。僕たちには見えていなくても、実際、彼ら彼女らには「見えている」のかもしれません。そして、これもまた認知症に限った話ではないですよね。同じような世界を生きているようでいて、人はそれぞれ見ている世界が違うんです。

ですから、コミュニケーションする上で重要なのは、まずはそう認識すること。その上で、その違う世界を楽しめるかどうか、だと思います。自分とは違う世界を見ている人を異常と判断して排除するのではなく、異文化として捉えて好奇心を持つ。これもすごく大切なことではないかと思うんですよね。

介護や演劇をやっている人は、その違いを楽しむことがうまいんです。「イエスアンドゲーム」が終わった後に感想を聞くと、一般の人には「なかなか楽しめなかった」「肯定するのは嘘をついているようで後ろめたさがあった」という人が多いのに、介護や演劇の経験者は「肯定する方が通じ合っている感じがして楽しかった」「次に何を言うのかワクワクした」と言うんです。

──ただ、自分の日常のコミュニケーションを振り返ってみると、わかっていてもつい正すような物言いをしてしまうことも多い気がします。

そんな時には「役を演じる」という意識が助けになるかもしれません。心のカチンコを鳴らす、とでも言いますか。

「おかじい」はそれができるんですよ。彼は認知症の奥さんと一緒に住んでいて、「今日はカレーを作るね」と伝えてから作り出すのだけれど、出来上がるころには奥さんはすっかり忘れてしまっていて、「そんなものは食べたくない」と言う。当然イラッとくるんですけど、そんな時、「おかじい」は心のカチンコを鳴らすんです。「じゃあ後でお腹が空いたら食べようね」と言って、静かにお皿を下げるんですよ。

もちろん難しいです。なかなかできる芸当じゃない。でも「そんな時は心のカチンコを」と普段から思っていれば、幾分でも意識的になれるかもしれないですよね。

人ではなく、ルールを変える

──高齢者や認知症患者とお芝居を作っていて、菅原さんご自身がイラつくことはないのですか? 思うように動いてもらえない、とか。

思い出されるのは『カメラマンの変態』という芝居を作った時です。主演の「おかじい」は、脳梗塞を患い、半身麻痺の上に言語障害で喋れないという役だったんですが、本番になると、動いたり喋ったりしてしまう。何回指摘しても直らないので、つい「みんなに迷惑をかけています!」と言ってしまったことがありました。そうしたら「おかじい」は、その後もことあるごとに「監督はわしがいて迷惑だと言った」と言うんです。傷ついているんですよ。

僕は30歳を過ぎてから劇作家になったので、自信がありませんでした。当時はとにかくいい台本を書いて、いかに台本通りに芝居を作るかばかりを考えていました。この時も芝居をより良いものにしようと思ってした発言だったのですが、その後の「おかじい」の様子を見て、やはりそういうことは言うべきではなかったと反省しました。

いまは目指すところがちょっと変化していて、いかに多様な人に集まってもらうか、集まってもらった人で何ができるかという発想に変わっています。相変わらず、予想外のことはたくさん起こる。でも、いまはそれも含めて楽しめるようになりました。

──「コトナル」というメディア名は「異なる」と「個となる」のダブルミーニングになっていて、そこには「それぞれ異なる存在が、あるがままの個としていかに関係を結べるか」という問いを込めています。菅原さんご自身もかつてそうだったというように、台本ありき、計画ありきだと、そうした接し方はやはり難しいんでしょうか。

そう思います。先に計画があると、どうしてもそこに嵌めようとしてしまいますから。ルールに人を合わせようとするから難しいし、それができないからイライラしてしまう。

演劇が面白いのは、ルールの方を変えられることです。ルールを変えると、その人の意外な一面が見えてきたりもします。僕がそういう演劇の面白さに最初に気づいたのは、高校3年生の時。桜美林大学のオープンキャンパスで、平田オリザさんのワークショップに参加した時です。

例えば、電車のボックス席で向かいに座った人に「旅行ですか?」と話しかける芝居をするとします。参加者はみな高校生なので、恥ずかしがったり妙に馴れ馴れしくなってしまったりしてなかなかうまくセリフを言うことができません。それはそうですよ。「日常生活で同じ状況に遭遇したら話しかけますか?」と聞いてみると、ほとんどの子は「話しかけない」と答えるんですから。

でも、中には「状況によっては話しかけるかも」という子もいます。「例えば向かいの人が抱いている赤ちゃんがこちらに関心を持っていて、赤ちゃんと戯れた延長でなら言えるかもしれない」と。するとオリザさんは「じゃあそれでやってみましょう」と言うんです。相手役を赤ちゃん連れのお母さんに設定し直して、もう一度やってみる。要するに、その人に頑張らせるのではなく、状況の方を変えるんです。そうすると自然と言えるようになったりする。それが面白いと思いました。

──なるほど。人ではなくルールや状況を変える。

日常生活にも似た場面はたくさんあります。例えば会議で自分の意見を言えない新入社員。「新人だからって甘えるな。ちゃんと自分の意見を言え!」といくら言ったところで仕方がないですよね。言えない空気、関係性がすでに出来上がっているんですから。

仕事の世界で、演劇や遊びと同じように自由にルールを変えるのは難しいかもしれません。でも、いつもルールありきでなくてもいいのではないかと。その場にいる人の個性を活かして何かを作る、そういう発想も時には大事ではないかと思うんです。

老いの豊かな世界

──それにしても、演劇や介護からこれほどまでに日常に活かせるエッセンスが得られるとは思いませんでした。

僕自身も日々驚かされています。初めて会った時「おかじい」はすでに88歳。「この先どんどんできることが減っていくのだろうな」「やりたいことはやれるうちにやらなくては」と思っていたんです。ところがこの9年で、できることはどんどん増えている。

劇団を立ち上げて最初の芝居でやってもらったのは、冒頭と終わりにちょっとだけ出て、でも強く印象に残るという美味しい役でした。セリフはほとんどなし。でも本人が「もっと出たい」「喋りたい」というので、その後はセリフも出番もどんどん増えて。最新作はもう出ずっぱりの喋りっぱなし。この演目は熊本、高知、東京、横浜でもやっているんですが、まさか90歳を超えるおじいさんと全国ツアーするなんて思っていませんでした。

──そうでしょうね。

日常生活では確実にできないことが増えているんです。「おかじい」はいまは岡山市内で一人暮らしなのですが、スーパーへ買い物に行くのも一人では難しく、ヘルパーさんの力を借りている。にもかかわらず、演劇という関係性の中ではできることが増えているから不思議だな、と。

奈義で一緒に活動しているメンバーにも同じことを感じます。認知症の患者や発達障害の若者などもいるのですが、演劇をやっている間はものすごくイキイキしていて、楽しそうなんです。演劇というのは虚構の世界ですが、まるで役を演じている時の方が本当の姿のようで。逆に社会生活の方が虚構かのように思えてくるんですよね。

──先ほど仰っていた「人はみな違う世界を見ていて、大事なのはどれが正しいかではなく、その違いを楽しめるかどうか」というお話とも通じるなと思いました。

そうそう。できないことが増えていくのは現実ですが、それを深刻に受け止めて拒絶するのか、それとも「人間なんてそんなもの」と思って楽しむのかで、その人の老いの姿は変わってくる。介護する側も然り、です。できる・できないにこだわるのか、それともできないことを共に楽しむのかで、介護の現場は変わるんですよ。

人生の上り坂と下り坂とでは、求められる価値観はちょっと違います。下り坂を生きている人に上り坂の価値観を押し付けていては、傷つけてしまうこともあるかもしれません。

面白いのは「成長」という言葉です。上り坂では「できないことをできるようにする」ことを意味する言葉ですが、下り坂においてはもしかしたら「できないことを受け入れる」のが成長かもしれないです。そして、上り坂を生きる若者も、しんどい時には下り坂の価値観が救いになるかもしれない。その意味でいま、いろんな人がごちゃ混ぜで芝居を作れていることがいいなと感じているんです。

──菅原さんの活動は、そういう大切なことをエンターテインメントというか、表現によって世の中に発信しているのがまたいいなと思いました。このメディアで以前取材したロックミュージシャンの方とも通じる部分があるな、と。

詳しいわけではないですが、僕もロックが好きです。ロックというのは「いま、ここ」を共に楽しむことですよね。そういう意味では、介護もまたロック。昨日や明日のことを考えるのではなく「いま、ここ」を楽しめるかどうかが問われるんです。

できることが増えているとは言っても「おかじい」はもう96歳。毎回「明日の命はない」と思って関わってくれています。老人ホームのお年寄りもそうでした。今年見た桜が最後の桜になるかもしれないから、精一杯「いま、ここ」を楽しもうとするんです。だから彼らは充実しているし、コミュニケートしていて、心と心が通い合う感じがある。コミュニケーションの本質は、どうもこの辺りにあるんじゃないかと感じています。

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