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『「戦後」を読み直す 同時代史の試み』 有馬学
ひとり遅れの読書みち 第50号
敗戦の年に生まれた歴史学者有馬学氏が、人生のその時々に読んで興味を引いた本を今日の時点で再読して、当時読んだときに受けた印象や感想を紹介しながらそれぞれの時代背景を語るとともに、今「読み返す」ときに感じる「違和感」を明らかにする。戦後を振り返り、歴史に生きる人々の姿を浮き彫りにしようとする試み。著者による「同時代史」の記述だ。
著者は、戦後を「列島史的な日本社会の激変」の時代と表現する。西欧社会に追い付き追いこそうと走り続けその目標を達成した1970年代初め。また少子高齢化によって生じた「福祉や安全保障」という問題。さらに「人間の存在のあり方」そのものの問い直しを迫っている現在。かつて「クルマを持つ」ことは夢だったが、どの家にも「クルマがある」ことがあたりまえとなり、さらに「クルマを持つことへの関心」そのものが失われる時代になってきた。少子化による「日本消滅の危機」も叫ばれている今日だ。
著者は、物心ついたときには戦後教育が制度も内容も試行錯誤の時代をほぼ終えていて、「完成形の戦後的価値観」を自明のものとして受容したと説明し、その後の人生はそうした価値観を「解体」してきた過程と述べる。「過去を知らなければ変化を感じることすらできない」し、また「現在をあたりまえと思っている限り、何の問いも発生しない」と問題を提起する。
著者がまず取りあげるのは、大日本図書発行の小学5年、6年の国語の教科書だ。その中で、「はえのない村」と「TVAの話」を話題にする。前者は、薬剤の配布や衛生思想の普及によって村の中からはえを撲滅しようと奮闘する青年たちの話。後者は、成功した米テネシーダムの資源開発の事例。「自然を人間に従わせる」ことによって幸福と繁栄が実現できるという話だ。「社会をより良い段階へと発展させてゆく人間の進歩への揺らぎない確信と、それを支える合理的な思考方法」が、当時は存在していた。
また同じく教科書に載せられていた2つの詩、「水」と「ぼくらの村」について、当時は「天才少年の詩」と感心していた。『山芋』という大関松三郎の詩集からとられたもの。著者は同時代の少年が書いたものと思っていた。だが、実は1926年生まれで終戦の前年には亡くなっていた人の詩だった。
当時はいわば「お仕着せの服」が用意され着せようとされていた。しかし、身体が「変容」していくにつれ、拒否するようになっていたと記す。
次は、むのたけじ『たいまつ十六年』(1964年)と山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)を取りあげる。著者は高校生のときに読んだむのの作品には「魂をゆさぶられる」体験をしたと述べる。だが「再読」すると、むのは戦争と「戦後」を執拗に問い続け同時代の日本の政治と社会を批判してやまなかったが、人々の「日常のヒダ」にまで入って声を聴くことができなかったと分析。現実をしっかり直視しなかったと手厳しい。
山口は「戦中コンプレックス」を乗り越えて、サラリーマン(庶民)の「戦後」を救済する方法を発見したと評する。
第3章は花森安治『暮らしの手帖』、第4章はテレビについて。萩元晴彦・村木良彦・今野勉『お前はただの現在にすぎない─テレビになにが可能か』(1969年)、小林信彦『テレビ黄金時代』(2002年)を取りあげる。
第5章は、関川夏央『ソウルの練習問題』(1984年)と『別冊宝島38 朝鮮、韓国を知る本』(1984年)で、等身大の隣人の姿を語る。
第6章では、辻豊・土崎一『ロンドン─東京5万キロ─国産車ドライブ記』(1957年)と徳大寺有恒『間違いだらけのクルマ選び』(1976年)。クルマが日本に登場してから大衆化し、今では若者がクルマに関心を持たなくなってきた状況を記す。
最終章では、山田風太郎『戦中派不戦日記』(1971年)『滅失への青春─戦中派虫けら日記』(1973年)を取りあげる。
戦時下の庶民は、特別に好戦的なわけでもなければ反戦的でもない。その庶民の感情が個々の具体的な生活の場でどのように表出されるかを、山田は見事に書きとめていた。また「八紘一宇」を批判するとともに「最後の一兵まで戦うべし」と主張するという「合理性と非合理性」とが誰の中にも共存していたことを確認している。戦後これは「全否定」されてきたものだった。
本書はやや複雑な方式をとりながら、歴史家の人生とともに戦後の歴史を記そうとする意欲的な試みと言えるだろう。
(メモ)
「戦後」を読み直す 同時代史の試み
有馬学
中央公論新社
2024年9月25日初版発行