『評伝 良寛』 阿部龍一著を読む
ひとり遅れの読書みち 第28回
江戸時代の僧、良寛の「実像」に迫る出色の評伝だ。良寛の詩歌や書は夏目漱石や斎藤茂吉など著名な文学者をはじめ数多くの人々を魅了してきた。なぜか。著者は従来の評伝では見落とされてきた彼の「生き様」を改めてたどる。良寛の魅力の源泉を探るとともにその「真の姿」を描く。そこには「血のにじむような修行」を経てはじめて得られた人生があった。さらに著者は、現代社会に生きる私たちに良寛が何を教えているかと問い、「幸福の方程式」と名付ける生き方を提示している。本文550ページに及ぶ力作である。
「良寛が托鉢の途中で子供たちと手毬つきやかくれんぼうをして遊んだり、すみれ摘みに夢中になって托鉢の鉢を春の野に忘れて来てしまった」などの「牧歌的な良寛」のイメージはよく知られている。しかし著者は、良寛が同時代の仏教僧の誰もが及ぶことができない「本格的な仏教」を実践した者だったと強調する。これまで良寛について数多くの評伝が書かれてきた。しかし著者によると、こうした評伝には「重大な欠落」が3点ある。その欠落ゆえに良寛の「実像」が見えなくなっているという。
第1の欠落は、良寛が少年期から18歳になるまで学んだ「古文辞学」という儒教がどんな学問体系だったか、それが良寛にどう影響を与えたかが解明されていないこと。
荻生徂徠の大成した古文辞学。朱子学を批判することで儒教を本来の形に戻すことを目指した。中国古代に遡る漢詩の伝統と高度な作詩法を学び、詩歌の制作に生かした。また経世学の性格も強く持っていた。現代の政治学、社会学、経済学にあたるもの。これを理解しないと、良寛が越後出雲崎の名主だった橘屋の跡継ぎの地位を捨てて放浪し出家した真相を理解することは不可能だと指摘する。
欠落の第2点は、良寛が曹洞宗門という巨大教団組織と「袂を分かって」「独自の仏教の実践の道」を歩んだこと。良寛は曹洞宗の宗祖道元に生涯私淑し、その著書「正法眼蔵」を学び尽くしていた。だから曹洞宗との関係も良好だっただろうと誤認されているという。良寛は道元の著作を学べば学ぶほど、曹洞宗門の現状が道元の理想とかけ離れていることを痛感し、独自の道を歩むことを決断したという。
良寛は師の大忍国仙について備中玉島(現岡山県倉敷市玉島)円通寺で修行した。国仙は寛政3年(1791年)円通寺で示寂する。良寛はその前年、円通寺に入寺してから11年後に禅の修行が完了したとの印可を受けた。良寛33歳のとき。この印可を受ける前後から良寛は、当時の曹洞宗門のあり方に疑問を感じていた。円通寺での修行を終えてから39歳で故郷に帰るまでの6年間、良寛は諸国を巡った。だがその間曹洞宗の寺院に立ち寄った記録がない。宗門内の「諸国行脚」ではなかった。
第3の欠落は、良寛が帰郷してから74歳で示寂するまでの35年間続けた「乞食僧」としての生き方が何を意味するか、従来の良寛の伝記では明確な説明がない。良寛は寺も檀家もない「乞食行」の生涯をひとりで貫き通した。著者によると、これは釈迦自身が行った仏教の原点の実践を忠実に守るもの。「孤高の仏教僧」として生きたというのだ。
ただ孤独ではなかった。乞食僧の良寛に喜捨する人々がいた。また良寛は誰とでも分け隔てなく向き合い、彼らも良寛の生き方をよく理解し支え続けたからだ。
「乞食行」とは、人々の喜捨が「功徳の種」であり、その種を植える「田畑」にあたるのが、出家して世俗を離れた僧の「清浄な身体」であるという教え。僧のまとう衣を「福田衣(ふくでんえ)」と呼ぶのはそのためだ。人々が喜捨で植えた功徳の種が、僧が修道することで戻っていくという。人々を分け隔てなく喜捨を受ける。これが仏教の理想とする「衆生済度」や「大慈大悲」を基礎付けるものという。
著者は「良寛のおきみやげ」と題した最終章で、現代に生きる私たちに良寛が示した「幸福になるための方程式」を改めて掲げる。それは「人を分け隔てしない」「人に優しい言葉をかけて励まし慰める」「人を傷つけることを言わない」の3点であり、「他者に幸せを与えて生きること」と強調する。彼の詩歌や遺墨が魅力的なのはこうした生き方ゆえだと断言している。傾聴すべき言葉だ。
<メモ>
評伝 良寛 わけへだてのない世を開く乞食僧
阿部龍一著
ミネルヴァ書房
2023年5月30日 初版第1刷発行