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『戦争ミュージアム』 ─記憶の回路をつなぐ 梯久美子

     

ひとり遅れの読書みち     第43号

     「過去からの声が聞こえる場所」─それが戦争ミュージアムだ。著者は全国14か所を訪れて記録するとともに、そこにゆかりのある人々の声を伝えている。
     梯は硫黄島総指揮官、栗林忠道の戦いを描いたノンフィクション『散るぞ悲しき』で脚光を浴びた作家。戦争にかかわる取材を始めてから約20年。直接会って話しを聴くことのできる体験者が減ってゆく。「もの」を通して「歴史のディテール」に触れることができるのではないかと思い、「戦争を伝える、平和のための資料館や美術館」=「戦争ミュージアム」に足を運ぶ。また体験者らから話しを聴いた。本書は、その記録だ。
     ミュージアムは「死者と出会うことで過去を知る」場所。「過去を知る」ことは、今の私たちが立っている「土台」を知ることであり、そこからしか「未来」を始めることはできないと、著者は強調する。悲しみと怒りを呼ぶ書だ。

     著者はまた、硫黄島やサイパンなどの戦場になった場所も訪れる。中でも衝撃を受けた場面を描いている。サイパンを訪れたときのことだ。
     サイパンはバンザイクリフと呼ばれる崖の上から1000人を越える人たちが身を投げたところでも知られる。遺族が建てたと思われる自然石で作られた小さな碑やお地蔵さんの前で祈る地元の人に出会ったとき。その人は「骨は持ち帰ることができても、血は持ち帰れない」と語ったという。確かに、遺骨は収拾できるが、血や涙はそれぞれの土地に染み込んで消えはしない。「大地に染み込んだ血によって、自分たちの島と死者はつながっている」と、その人は述べ、だから祈るのだという。「かつて誰かが斃れた場所に立つことは、その死者と縁を結ぶこと」ということだろう。

     著者が訪れたいくつかのミュージアムを挙げてみよう。
     「予科練平和記念館」(茨城県)では、当時の若者が憧れだった「7つボタン」の制服が展示されている。海軍飛行予科練習生たち約24万人(1930年~終戦)が学び、そのうち約2万4000人が戦地に赴き、8割の人が戦死したという。14歳から17歳、今で言えば中学生から高校生の若者たちだ。そこには、『古寺巡礼』などで知られる土門拳の撮った写真が幾つも掲げてある。訓練や学業に励む練習生たちの「ポーズをとらない」写真だ。

     「周南市回天記念館」(山口)は、一旦中に入れば死ぬしかない人間魚雷、回天の基地があったところ。潜水艦から発進して敵の艦船に体当たりする1人乗りの特攻兵器だ。逃げ道はない。試作機が完成し、試運転が行なわれたが、訓練の段階で事故が多発した。15人が訓練中に亡くなっている。

     「八重山平和記念館」(沖縄)は、「戦争マラリア」と呼ばれる実相を明らかにしている。マラリアは蚊(ハマダラカ)の媒介で死に至る病。八重山の住民は過去の経験からハマダラカが多く生息しマラリアに罹患しやすい区域(有病地)を避けて生活していた。だが、1945年6月軍の命令で有病地に強制的に移住させられた。マラリアは爆発的に流行して人口3万余の53%が罹患し3647人が死亡したという。

     戦争による被害だけではなく、「加害の側面からも目をそむけない」展示もされている。例えば、「大久野島毒ガス資料館」(広島)。瀬戸内海の眺めが美しく、今ではウサギの島として知られている。ここは毒ガスが製造されていた場所であり、防毒服や防毒面、製造器具や保管容器などが展示されている。保管に用いられている陶磁器は、「味噌や酒が入っていてもおかしくないような大甕」だった。毒ガスの総生産量は6616トンで、兵器として使えば「億単位の人」を殺害できる量という。中国に残った毒ガスの廃棄には、日本が責任をもち、今なお多大な処理費用を負担している。

     「満蒙開拓の平和記念館」(長野)では、満蒙開拓団とは何か、体験者一人ひとりの証言が紹介されている。「被害と加害がからみあった複雑な側面」があるという。

     その他、美術の道を志しながら戦死した若者たちの作品や遺品を展示する「戦没画学生慰霊美術館 無言館」(長野)、疎開する子供たちを乗せて沈んだ船の「対馬丸記念館」(沖縄)、「象山地下壕」(長野)、「東京大空襲、戦災資料センター」(東京)など。
     著者は読者に各施設を訪れて、そこで行なわれている語り部の会やセミナーなどで直接話しを聴いてほしいと呼びかけている。
(メモ)
戦争ミュージアム─記憶の回路をつなぐ
梯久美子
岩波書店
2024年7月19日第1刷発行
     
     

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