見出し画像

『ことばの歳時記』 山本健吉や

     日本語の言葉の美しさや繊細さは、一千年以上にわたる美意識や生活の知恵に基づいている。本書は、短歌や俳句の専門家として著名な山本健吉が「季の詞(きのことば)」についてのノートとして発表したもの。言葉の奥深さを伝える書として、幾度となく読み返したくなる。
     山本は記紀・万葉以来の歌人たちや連歌師・俳諧師たちによって選び出され、磨き上げられてきた数々の季の詞を紹介する。例えば、「行く雁」「花たちばな」「野分」「時雨」など。これらはある特定の季節現象を示す言葉というだけではない。「千数百年にもわたって、たいへんなエネルギー」が払われてきた「美的形成物」であり、そこには「年輪」が刻まれているというのだ。

     歳時記は、季節の題目を集め、分類排列したもの。日本の季節の変化は豊かであり、季節の移り変わりに対する感受性を、非常に鋭く繊細なものにしてきた。風の名や雨の名について「微細な変化を感じ分けて名をつけた」とし、それらは「生活感情の深部」にまで滲みとおって影響を与えている。

     本書は、春、夏、秋、冬(付き・新年)と項目に分けて、言葉を探し深く読み込んで行く。
     春の項では、まず「立春」をとりあげる。立春のころ2月は、まだ寒いさかりであり、その時期に春の到来を感じることは困難かもしれない。しかし、まだ寒いさかりに春の到来を「祝い」春を「嗅ぎ分ける」こと。季節の推移に敏感な日本人の感性を示すものだろう。2月になれば立春の日が来るのだという期待が、どんなに気持ちの上で冬をしのぎよくしてくれるか知れない。「待ちに待った春がとうとうやって来た」という思いだ。
     また「春がたつ」という言葉には、春の誕生をことほぐ「歓喜の気持ち」がこもってもいるという。次の歌がそれをよく表している。
   

ひさかたの天の香具山この夕べ
     霞たなびく春たつらしも    (万葉集)



     暦の上で春になったからといって、急に春霞が立ち始めるものではない。だが、春になったというと、春霞が立ちこめなければならぬ。あるいは、春霞が立ちこめなければ春になったというような気持ちがしないといった感じを人々が次第に持つようになった。

     

春なれや名もなき山の朝がすみ


松尾芭蕉が歌っている。

     夏の項目では、まず「新緑」をあげる。初夏の季感を色で代表させたら緑だという。「深緑」になると真夏の季感だ。「ホトトギス」、あるいは「薫風」「あいの風」「やませ」などの風、さらに雨についてのいくつかの季語を説明する。
     秋については、「踊り」だ。盆踊りのこと。跳躍運動であり、地面を踏みしずめ、踏みならすことで、邪悪な地霊を退散せしめるという。一方「舞」とは旋回運動であり、年一回訪れる神へのもてなしの言葉であるそうだ。また「月」「雁」「野分け」「虫」など。「身にしむ」も秋の季語になっている。これは歌人たちが詠んで来た伝統によったもの。とりわけ藤原俊成の次の歌が大きく影響したという。
   

夕されば野辺の秋風身にしみて
       鶉鳴くなり深草の里

     芭蕉もまた次のように詠んだ。
     

身にしみて大根からし秋の風

     冬については「時雨」。芭蕉の『猿簑』では巻頭に時雨を詠んだ俳句が、次の句をはじめ十数句並ぶ。
     

初時雨猿も小簑を欲しげなり

     長い年月の間に担わされて来た意味やニュアンスの重さが、時雨という言葉に愛着を示させた。
     

神無月降りみ降らずみ定めなき
          時雨ぞ冬のはじめなりける

     後選集のこの1首の歌が名歌として喧伝され、時雨といえば「人生の定めなさ、はかなさ」をあわせて感じとるようになってきた。「感じ方の伝統」をつくり「季感を固定させた」という。
     本書は一つ一つの言葉には千年という長い年月によって「年輪」が刻まれていることを教えてくれる。
(メモ)
ことばの歳時記
山本健吉
発行  文藝春秋 昭和55年1月

いいなと思ったら応援しよう!