万葉仮名でよむ『万葉集』 石川九楊
ひとり遅れの読書みち 第29号
書家の石川九楊が「万葉集」を新しい視点で読み解き、その魅力を一層引き出している。今私たちが普段目にする漢字仮名交じりの歌ではなく、すべて漢字で書かれた歌を読む。漢字一字一字に込められた意味を理解しながら元の「万葉の姿」に戻る。すると、一層ダイナミックに歌声が響いて聞こえて来る。自然の動きや人々の生きる姿が、これまで以上に私たちの心に迫って来る。瞠目に値する万葉集の味わい方だ。
例えば、万葉集の二番目の歌だ。
大和には群山(むらやま)あれど天の香具山登り立ち 国見(くにみ)をすれば国原(くにはら)は煙(けぶり)立ち立つ海原(うなはら)は鷗立ち立つ うまし国ぞ蜻蛉島(あきづしま)大和の国は
これは「山常庭村山有等」と始まる漢字ばかりの歌だ。「ヤマトニハ」は「山常庭」と記される。「ニハ」は二字ではなく「庭」の一字を当てている。
「国原は煙立ち立つ」は「國原波煙立龍」と記され、「鷗立ち立つ」では「加萬目立多都」と記されている。「たちたつ」が煙の場合は「龍」であり鷗は「多都」と区別されている。
龍は中国神話の天に住む架空の獣で、神や天子、皇帝の象徴。雲になったり、電気的な現象なったりする。そういう意味を含めた龍だ。つまり、見下ろすと、そこに村々があり、そこからは天に向かって煙がいたるところで竜(たち)上っている。その姿を「煙立龍」と表現したという。
「加萬目」は、「加える萬の目」だから無数のカモメを「多い都」と書く。「都」は「みやこ」ではなく「すべて」と読む。加える萬ですでに多さを表現している上に「すべて」を重ねる。いかにたくさんのカモメが飛んでいるかという風景がリアルに甦ってくる。
冒頭の「群山」では、山が連なっているだけではなく、たくさんの村があるという意味合いを含んでいることがわかるだろう。さらに「加萬目」の表記から「目」の像を取り出し、目の特徴的なトンボの島、つまり蜻島へと続く。
「大和には」と漢字仮名交じりに変えると「叙情的な写真家が撮る大和盆地の麗しい風景」のようにしか伝わってこない。元の漢字だけの歌にすると「いかに賑わしく国が立ち上がっているかという姿」がわかってくる。確かにイメージがより鮮明になる。
巻8の有名な次の歌の例も挙げる。
石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも
「石ばしる」は「石激」、「垂水」は「垂見」と記され、「萌え出づる」は「毛要出」、「春になりにけるかも」は「春尓成来鴨」と記されている。
「石ばしる」が「石激」となると、「激」によって、石にせき止められて、水が激しく流れる様が表される。雪解け水が流れて来て急流になり、さらに岩にせき止められて水がそれによって勢いを増し、滝のように見えていると解せる。
「垂見」も滝ではあるが「垂水」ではない。水の垂れる姿を見ているという意味を「見」という漢字に重ねている。垂れる水もまた蕨が見えるという意味も重ねているという。
「萌え出ずる」は「毛要出」と書いている。「毛」は芽を出すことも表し、蕨の茎の毛をも連想させ、小さな蕨の芽が出ている映像を浮かび上がらせる。「要」は腰の意で、腰をくねらせるような様子。蕨が少し茎をくねらせて芽を出している姿だ。
「春になりにけるかも」は「春尓成来鴨」と記す。鴨はいつの間にか渡って来る渡鳥で、音を連れて来る。つまり「音連れ、おとずれ、訪問客」だ。鴨が来た、いつの間にか春が来た、春の訪れだという意味がここに込められているという。
漢字文化を取り入れた日本に独自の文化を生み出そうとする動きや勢いが、万葉集の漢字群には見られるということだろう。
漢字に従うだけなら漢詩にすればよい。漢詩ではなく、「未だない言葉や文字」で心中に「ぐつぐつわいてきている歌のたぐい」をどう書き表した歌にするか、その「苦心が文字の一字一字の中に込められている」という。
また著者は万葉集の中でも時代が移り変わっていることを指摘し、万葉歌の「二重性」を強調する。簡単に言うと、初期万葉集は漢詩に近いが、後期は和歌に近く、読み込むにはそれぞれ違った接近法が望ましいという。
例えば、表記について。初期の歌で「梅花」と記されると、これは「ばいか」か「うめのはな」と読まれただろう。後期になると「鳥梅能波奈」と記され「うめのはな」と読ませた。一字一音式になっている。初期の歌はできるだけ文字に忠実に意味を探る。後期は音をきちんと読む必要があるというわけだ。
漢字仮名交じりで読んでいた万葉集の歌が、漢字だけの歌に戻ると、さらに深い意味や映像を把握することができる。貴重な指摘だろう。
(注)
万葉仮名でよむ『万葉集』
著者 石川九楊
発行所 岩波書店
2011年1月28日 第1刷発行