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『加藤友三郎』 西尾林太郎
ひとり遅れの読書みち 第54号
大正期の日本海軍を代表する海軍大将である加藤友三郎の人物記だ。第1次世界大戦中の1915年(大正4年)大隈内閣で海軍大臣に就任、戦後の海軍軍縮の協議を主な目的としたワシントン会議の首席全権を務め、またその後自ら内閣総理大臣として海軍大臣を兼任しながら、ワシントン会議で締結された諸条約の批准や軍縮に尽した。さらに諸外国から疑惑の目を向けられていたシベリア駐留兵の撤収を実現し、内政面では普通選挙実現のため大きな一歩を踏み出した。海相在任は7年9ヶ月にわたる。だが首相就任から1年余りの後の1923年に病死した。62歳だった。
本書は、加藤の人となり、またワシントン会議での交渉や首相在任中にどうリーダーシップを発揮したかを描いた。数少ない加藤の貴重な伝記となっている。
加藤は1861年広島に生まれ、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、次席で卒業する。海軍大学校を経て、砲術専用の練習艦「浅間」に乗り込む。艦長は東郷平八郎。次に巡洋艦「高千穂」に砲術長として乗り込んだ。その艦長は山本権兵衛だった。東郷や山本といった海軍の有力者に認められ、経験を積んでゆく。
日露戦争時、日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊と戦った際には、東郷司令官率いる連合艦隊の参謀長として艦橋に立った。東郷が右手を上げ、左方向に円を描くと
「取舵一杯」と指示を出したのが、加藤だった。
戦後、海軍次官に就く。薩摩閥として知られる海軍において、実質的に初めて同閥以外から登用された人物だった。明治期の海軍大臣は、すべて鹿児島の出身だ。斎藤実は岩手出身ながら、その妻は元海軍大臣(仁礼景範)の娘であり、薩摩閥に属すると言えた。歴代の次官も同様であり、加藤の次官就任は異例だった。「明敏即断」「勇気と胆力の人」と評されていた。
第1次大戦中に海軍大臣に就任すると、海軍の以前からの念願であった「八八艦隊」計画実現を目指す。だが予算の制約もあって、「漸進主義」をとり「一度に全て」達成することにこだわらない柔軟な姿勢を示した。軍艦の建造費とともに維持費、さらには演習などにも膨大な資金を要する。政府総予算の半分を使うことになるからだ。欧米との軍拡競争になると、厳しい財政状況では立ち行かないと認識していた。
1921年始まったワシントン会議では、駐米大使の幣原喜重郎、貴族院議長の徳川家達とともに全権となり、英米などの国々との交渉にあたる。海軍軍縮として知られる会議だ。主力艦の比を米英日10:10:6にすることを決断する。専門委員の加藤寛治海軍中将らは、米英比を7割にすることに固執したが、これを退けた。
海軍中央も軍拡競争を避けるべきとの考えだった。井出海軍次官からの電報では、10対7は必要だが、会議不成立によって引き起こされる米国との海軍軍備競争は「数において到底でき難きこと」であり、「7割以下」でもやむを得ないと伝えて来ていた。
さらに海軍の有力者である東郷元帥からの援護もあった。「士気とは何事ぞ。責任ある海軍大臣が6割でよしと思うならば、士気に関する理あることなし」と、軍事参議官会議で、名和又八郎大将が「海軍軍人の士気に関する故、反対なり」と発言したことに、すかさず言い放ったという。
ワシントン会議開催中に原敬首相が暗殺され、蔵相の高橋是清が後継首相となっていた。1922年に高橋内閣が瓦解すると、加藤が同年6月新首相に就任する。国際協力増進などの施政方針を発表した。また、1918年開始されていたシベリア駐留軍の撤収を実現する。
海軍の軍縮については、旧式戦艦を中心に合計18隻、総トン数約40万トンが処分された。「八八艦隊」は実質「六四艦隊」に甘んじることになった。これに伴い、関連施設も縮小され、将兵らは大量解雇された。著者によると、准士官以上が1700人、下士官・兵約5800人、職工約14000人が海軍を去る。「軍縮による犠牲者」はどうすればよいのか、と海軍内での不満、不平はつのっていった。予備役に編入された将官たちからの批判も出た。海軍と同時に陸軍でも軍縮は実施され、5個師団規模の削減が決定されている。
加藤の死後になるが、1930年のロンドン海軍軍縮交渉をめぐっては、加藤寛治らの艦隊派が加藤友三郎の流れをくむ条約派との対立を生む。艦隊派は次第に力を得て、軍令部に対する海軍省の優位が崩れていくことになる。
加藤首相は、海相就任当初、軍令部の勢力を拡張しようとする佐藤鉄太郎軍令部次長を更迭し、またその後予備役に編入した。しかし、加藤寛治については、ワシントン会議で鋭く対立したけれども、その後も重要なポストに起用し続けた。なぜか。著者は、兵学校当時の教え子だったからと推測している。今日から過去を眺める立場に立ってその後の海軍の進む方向を見ると、加藤寛治らの勢いは早い段階で抑え込んでおくべきだったように思われる。残念なところだ。
(メモ)
加藤友三郎
西尾林太郎著
吉川弘文館発行
2024年10月10日第1版第1刷発行