『陥穽』陸奥宗光の青春 辻原登
ひとり遅れの読書道 第44回
欧米列強との不平等条約の改正に取り組み、日清戦争に際しては、外相・全権大使として開戦外交を指揮し、下関条約の締結を果たした陸奥宗光。「日本外交の父」として高く評価され、今も外務省前に銅像が置かれている。また死の直前に著した『蹇蹇錄』は、外交官の必読書と評されてきた。
だがその前半生、明治10年(1877年)の西南戦争勃発の際には、その危機に乗じた土佐立志社系の政府転覆計画に加担する挙に出て逮捕され、5年間の刑を受け獄中にいた。才知に富む陸奥が、なぜそうした行動に出たのか、その理由を探ろうと、作者は陸奥の幼少の時からの歩みを振り返る。
幼い時から逆境にもめげずたくましく育って行く様子を、作者は臨場感たっぷりに描く。「血わき肉おどる」語り口だ。勝海舟、坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛など幕末、維新の時代に活躍した人々との出会いも随所に見えて、状況が複雑に展開する維新の側面を知る読み物にもなっている。
陸奥は徳川御三家の一つ紀州和歌山の勘定奉行の息子として生まれ、幼いころから群を抜く能力を誇っていた。だが、藩内の抗争に敗れた父は幽閉される。家族にも10里所払いの措置がとられ、母と幼い妹2人とともに家を追われた。9歳の時。刀の鞘を払って復讐を誓ったと伝えられている。生計を自分たちで立てて行かなければならず、田畑の手伝いや飛脚の仕事をこなした。勉学に励む中で、地元の教育者からの期待を受け、高野山の僧侶の下での勉学を許され、学侶として江戸へ行く道が開かれた。15歳の時。
江戸では語学の勉強にも励む。西洋の脅威を強く感じ始めていた時代。優れた医師から洋学の手ほどきを受ける。英公使館通訳のアーネスト・サトウとも親交を結ぶ。19歳の時勝海舟が神戸で開いた海軍塾の訓練生となり、坂本龍馬とも交わる。海援隊では長崎に移り龍馬の信頼を得て、外国との取り引きの責任を任される。さらに龍馬を通じて桂小五郎や西郷隆盛と接触するなど実力を発揮して行く。
ただ、才能は明らかながら、人を見下すような傾向があり、嫌う者も多かった。高野山の僧侶はかつて陸奥の能力を十分認めた上で「自恃の念いささか強く、知を誇る嫌いあり」と警告していた。しかも和歌山出身ということで、薩長の志士たちとの影響力の差は歴然としていた。
明治政府の樹立後、陸奥は地租改正を断行したり、刑法改革で拷問を禁止したりと活発な働きをしている。兵庫県や神奈川県の知事も務めた。だが、薩長藩閥政治への反発や不満は消えていない。明治6年征韓論の問題で政府が大きくわれた。陸奥は藩閥政治が一段と色濃く表れてくると感じ、「有司専制」の打破が必要と痛感する。そして西南戦争の勃発を千載一遇の機会ととらえて、クーデターの試みに加担していく。
西南戦争に兵を割かれて手薄になった大阪鎮台を、土佐兵数千人が占拠し京に攻め上る。内務大臣大久保利通や参議伊藤博文ら政府首脳を暗殺し、天皇を人質に取って、新たな立憲民主政体を樹立するという計画だ。しかし政府側はこの計画を早くから察知していた。6月から事件関係者は次々と検挙され、陸奥は翌11年6月に逮捕される。35歳。元老院幹事・副議長(仮)の地位にあった。
「立憲政体樹立」という大義のある理念を抱きながらも、その理念を具現化する手段は現実的ではなかった。理念の「現実性」と計画・手段の「非現実性」の間に穿(うが)たれた穿穽に真っ逆さまに墜落した、と作者は分析する。陸奥も「心は愛国に存す」といえども「小知短識」にして「権略にのみ馳せ」ると反省の弁を述べている。
勝海舟は陸奥について、良き指導者の下で働けば「十分才を揮(ふるえ)る」が、そうでなければ「不平の親玉」になると、その悲劇的な欠点を指摘。「大久保のもとに属したら十分才をふるえたであろう」と述べていた。陸奥はその大久保に「楯突き、蹉跌を来たした」のだった。
作者はさらに、陸奥が特赦放免を受けてからの考えを次のように推察している。つまり陸奥は「藩閥政治に対する批判と怒り」から政府転覆計画という「愚状」の行為に走った。「薩長の脅威を恐れ憎む気持ち」と「西欧列強の脅威に怯え反発する心情」とは似ているのではないか。今後「弱小国家日本」が国力を増して行くなら「西欧やロシアとの力関係」を「転覆する計画」を立て始めたりしないかと危惧する。その「愚状」を避ける道を見つけることに「政治家としての死命」を賭けると陸奥は見定めた、と作者は考える。放免後陸奥は直ちに欧州留学へと旅立っていった。
(メモ)
陥穽(かんせい)
陸奥宗光の青春
著者 辻原登
発行 株式会社日経BP 日本経済新聞出版
2024年7月17日 第1刷