『戦後政治と温泉』 原武史
ひとり遅れの読書みち 第30回
日本の政治トップは、太平洋戦争直後の1940年代後半から高度経済成長期にあたる60年代にかけて、箱根や伊豆などの温泉地にとどまって政権の維持をはかり、また国内外の課題解決の道を探った。さらに、いかに権力を保ち政界の力関係を自陣に有効にできるかを考えながら、近郊に居住する主要な人物との交流を進めた。GHQによる占領統治を経て日本が独立を回復し、経済的に復興していく時期である。
吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人など戦後内閣の首相たちは、大都会東京の喧騒を避け富士山を眺め相模湾を見つめながら、静かな環境を十分に活用した。体力を養うとともに精神的な安らぎも求めた。時には面会を謝絶して、ひとり様々な構想を練った。
本書は、余り扱われなかった温泉地と政治家との濃密な関係をとりあげ、戦後政治が東京永田町だけで決められていたのではないことを鮮やかに描いた。権力と空間を見つめる興味深い内容だ。
首相たちは国家の未来を遠望し政策の立案をはかるときもあり、経済学者や財界の首脳たちを集めて経済成長の策を立てたり、また外交官や外務省幹部を呼んで海外との交流の道を探ったりした。
中には1ヶ月以上も東京を離れて別荘暮らしをする首相もいた。鳩山一郎の場合は軽井沢にいて閣議にも出席しない。外相で副総裁の重光葵を呼んで閣議の報告をさせている。
今では、首相が2、3日でも東京を離れて温泉地に泊まっていたことがわかると、激しく批判される。危機管理を問題にされることも多い。しかし当時、著者によると、全くそういう批判や非難の声は出なかったという。
著者によると、1955年8月19日、永田町の官邸で、鳩山一郎を首相とする内閣の閣議が開かれた。4日後の訪米を控えていた重光外相が、訪米の目的を説明し了承を得た。だが、鳩山首相はその場にはいない。
重光は閣議後、午後に開かれた参議院外務委員会終了後に自動車で軽井沢に向かった。鳩山がそこに滞在していたからだ。鳩山と重光の会談では、訪米のほかソ連との国交回復やフィリピンとの賠償協定についても話し合われたという。会談後重光が軽井沢を出たのは午後7時30分。翌20日に重光は栃木県那須御用邸にいた。昭和天皇に奏上するためだ。重光は21日になると箱根小涌谷に向かった。吉田元首相に訪米について説明。「国家の元老」と吉田を持ち上げ「党派を超越して国家を救う責任あり」と話して協力を求めた。
つまり重光は8月19日から21日にかけて3日間東京を空け、軽井沢、那須、箱根と訪ね歩き、それぞれの地で訪米の目的を報告し、意見を交換していたことになる。東京で行われるべき会談が、避暑地や温泉地で行われていたのだ。
57年10月には岸首相がインドのネール首相らとの会談を首相官邸で終えると箱根のホテルに向かった。インド政府一行を招いて「かみしもをぬいだ話し合い」をしたとのこと。岸は「自己の哲学や人生観」「思い出話」などと話題が広がり、互いの人間を理解し共鳴する部分が生まれて来て貴重な会談だったと評している。
60年7月首相に就任した池田は、やはり箱根で組閣や党人事、また今後の政策課題の構想を練った。経済学者の下村治や田村敏雄ら政策ブレーンを箱根に集めて、所得倍増計画の原案を作らせてもいる。池田政権の目玉になる計画をそこで準備していたのだ。
著者はドイツの社会学者マックス・ウェーバーの『職業としての政治』を引用して、指導者的政治家には「判断力」が必要な資質のひとつだと指摘。判断力とは「事物と人間に対して距離を置いてみること」を意味するとして、政治家には「距離への習熟」が求められていると強調する。「距離」とは必ずしも物理的距離を意味しないと断わりながらも、東京という政治の中心から距離を置き、「俗界から離れてひとり温泉に浸かる」ことは重要と語る。
戦後の保守政権には、東京からしばし離れて「温泉の力」を借りながら様々な問題を乗り越えてきた歴史がある。ここに今日の政治が見失ったものがあるのではないか、と著者は問いかけている。
(メモ)
戦後政治と温泉
箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間
著者 原 武史
発行所 中央公論新社
2024年1月10日 発行
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