短編150.『作家生活15』〜アヒル口篇〜
なんらかの理由があって二日も本が読めない日が続くともう駄目だ。
何も湧いてこない。
脳が出涸らしのようになる。
酒や煙草や風景は添加物に過ぎない。
出来上がった料理にかける調味料。
まぁそれも大切なのだが。
やはり脳を、書く為の脳部位を、駆動させるのは他人の言葉しかない。
良い文章を読めば鼓舞されるし、
(SNS上に散らされた)クソの如き詩が目につけば駆逐すべく動き出す。
そう考えれば、人と人は支え合っているのかもしれない。
それがどのような歪に拗れた関係性であっても。
*
「なんやろ。今日のセンセはえらい可愛らしい顔してはりますなぁ」
「昔から”ベビーフェイス”とはよく言われるよ。タンニンのような渋味が欲しいね」
「そうじゃのうて」明らかに広島弁だった。「最近、笑顔でいる時間増えてはりませんか?」
「はて?」
何も楽しいことなんてなかった。Twitterのフォロワー数は百人にも届かず、YouTubeチャンネルの登録者数はゼロ。ノーベル賞へのお誘いもなければ、預金残高も少なかった。よって笑顔など出る幕はなかった。ジョーカーよりも笑っていない。下がった口角こそ私のトレードマークだ。
ーーー笑顔?そんなはずはない。
私は鏡の前に立った。
ーーーなんだこれ?
実に自然に口角が上がっている。私ではなく、誰か別人の反射を眺めているみたいだ。それは”アヒル口”と呼ばれるものだった。私はもはやギャルだった。
ーーー考えられることと云えば、トランペット練習の副次効果だろうか。【ウ】の口ではなく、【イ】の口が正解らしい。そのためには頬筋を持ち上げ続ける必要がある。故に吹いている間は常に”アヒル口”だ。結果、頬の筋肉は鍛えられ、重力と日々の鬱積に抗するようになる…のか?
二十一世紀のトレンドは整形手術よりトランペットかもしれない。
鏡越しの私はUNIQLOの村上Tシャツを着ている。佐々木マキの描いた『1973年のピンボール』の表紙をモチーフにしたものだ。
「私のこのTシャツ、いくらで売れるだろう」
私は鏡に映り込む担当くんに尋ねた。
「古着屋持っていっても二〜三十円とちゃいます?」
担当くんは指で円マークを作った。
「もっと値段、つくはずだ」
「そんなレア物なんどすか?そのTシャツ」
「村上Tシャツだ!それに私が着たんだぞ。野球選手の泥付きユニホームが千二百万円で売れて、私のこの綺麗な村上Tシャツが二〜三十円だなんて世の中の価値基準が狂ってるとしか思えないね」
世相は常に間違っている。私はどこかきっと別の世界線で生きるべきなのだろう。
「どうやら私の小説は教養が無いと面白くないらしい。先日そういう意味のことを言われたよ」
「そやねぇ。なんや音楽やら小説やら漫画やら”こまい”時事ネタやら”えらい”昔の偉人ばかり出てきますもんなぁ」
「それって一般教養だと思っていたんだがね」
小説を読んで笑える為には様々なものに興味がなくてはならない。無論、書くに於いては尚更に。私の小説は知識人向けなのかもしれない。今や絶滅の危機に瀕した階級の。
「センセは教授様でおまんなぁ」
「うん。僕、教授でおま」
褒められると幼児化してしまう。十八歳以降、世相荒(すさ)ぶ厳しい風に吹かれ過ぎたせいかもしれない。語尾を「おま」で終わらせるのは確か関西弁だったはずだ。昔、関西弁のテレビタレントが喋りの最後に「おま」を付けていた記憶がある。それはまだ私から加齢臭が出るなんてことが万に一つも考えられなかった、幼き日の思い出だ。
私は先頃亡くなった立花隆氏に哀悼の意を込めて、こうべを垂れた。
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