渋沢栄一。600万ドル借款の謎(1)
徳川幕府が進めていた「徳川家を守り、かつ近代化も進める」戦略、それは小栗忠順(上野介)抜きには語れない。
小栗氏はその有能さ故に新政府によって処刑されることになってしまう...。
幕末そして明治維新では有名な「幻の600万ドル借款」の話。
【徳川幕府は近代化を進めていた】
大河ドラマ「青天を衝け」で遂に「大政奉還」となりました。
丁度、渋沢栄一がフランス滞在中の出来事。
「晴天を衝け」好きな人には説明無用かもしれないけれど、「明治維新によって近代化が行われた」というのは非常に分かり易いんだけど
「それだけが真実じゃない」んです。
ワンフレーズとしてはいいんだけども.....。
詳細を見てゆけば
「江戸川幕府も末期は近代化を進めていた」ことがお分かりだろう。
これは
「徳川慶喜の大政奉還が”手放す”ためでなく
”今後の新時代、新たな日本に積極的に関わるための戦略”だった」こととも関連があるー古いものを守り固辞する態度ではなかったー。
■年表■ 事実を列挙すればこのようになる
1853 ペリーの来航 → 開国が迫られる!
1854 日米和親条約
1858 日米修好通商条約
1859 3港(横浜、箱根、長崎)を開港
通商条約の批准書交換のため、幕府がアメリカに使節団を送る。
~小栗忠順、日本の近代化・工業化を誓う~
1861 ロシア軍艦が対馬を占領、最終的にはイギリスの威圧にて退去。
小栗はロシアとの交渉失敗、経済力と軍事力の弱さを痛感。
1864 横須賀製鉄所建設の決定(小栗やロッシュが見学)
1865 横須賀製鉄所建設着工【フランスから240万ドル借款】
1866 フランスから経済使節団が来日(クーレ、ロッシュなど)
【小栗がフランスとの600万ドル借款の約束を取り付ける。】
1867 フランスの借款計画がジャパンタイムズで暴露され
対日貿易独占を目論むフランスに対して英国議会でも批判が高まり
フランスもイギリスと協調路線へ
(ロッシュ主導による幕府支持の政策が終わる)
4月~ フランス万博<薩摩藩が「薩摩琉球王国」として参加>
ムスティエ新外相により【600万ドル借款、フランスが白紙撤回】
11月 大政奉還。
1868 ==明治維新==
* 横須賀製鉄所の借款:残50万ドル (ソシエテ・ジェネラル) *
*フランスはこの時点でまだ幕府から50万ドル抵当権をもっていた*
【明治新政府が債務を返済】し、横須賀製鉄所の接収を完了。
1871 第1号ドックが完成。11月には、明治天皇も視察訪問。
名称が「横須賀製鉄所」から「横須賀造船所」に。
~小栗忠順~
使節団でアメリカ訪問中に、位が一番下にも関わらず、その明朗さが高く評価された逸話、そろばんの話とか面白いです。
・小栗上野介と横須賀
・幕臣 小栗上野介(覚え書き)
【横須賀製鉄所とは?】
ちょんまげに刀。前近代の徳川幕府、日本がフランスの全面バックアップ・技術移転によってアジアでも有数の製鉄所を建設し、日本の近代化を進め、工業立国の礎にしようという計画。
24万6千平方メートルという膨大な敷地に製鉄所が建てられた背景は...
1853年にペリー艦隊が現れてから、幕府・諸大名は強力な海軍の必要を感じ、軍艦や船舶の建造や購入に力を入れ、海軍の拡張を図ってきましたが、それに伴い修理や器具製造の必要が生じ、横須賀製鉄所の建設が計画されたのです。
なお、世界遺産に登録されている富岡製糸場の工場建設をしたのがこの製鉄所であり、生野銀山ー日本史上有数の鉱山ーの数百の設備を製造するなど、日本の近代化の屋台骨を支えていた、ということができます。
当時、イギリスと並び世界最高峰の造船技術をもつフランス。ちょうど造船業に機械工業の最先端技術が導入されており、この建設・技術移転において一気に日本は世界の最高峰の機械工業の技術力を手に入れることになったのです。
明治45年夏、東郷平八郎は小栗上野介の遺族を自宅に招き「日本海海戦ー日露戦争中の最大規模の艦隊決戦ーで完全な勝利を得ることができたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです」と礼を述べています。
参考リンク「横須賀造船所 考察と想定復元」
【もう一つの欠かせない人物。そして...】
幕府の勘定奉行、小栗忠順などが徳川幕府を説得し、この製鉄所の建設を進めたけれど、残念ながら完成目前にして小栗は処刑されてしまいます
ー上記のリンク是非読んでねー。
この事業を成功させた、もう一人の主役。
それはフランス公使レオン・ロッシュ。
日本の近代化は、この二人を抜きには語れません。
この二人が土を耕し「近代化という果実」の準備を進めていたんですね。
徳川幕府はフランスと親しく日本の近代化・技術導入を進めていました。
そして、薩長同盟・新政府はイギリス派だったと。
つまり、明治維新とは「イギリスの思惑によるーイギリス影響化の経済勢力拡大ー新政府樹立」だという解釈、近年広がっていますが納得ですね。
世界の覇権争いを繰り広げられた当時、日本は極東に残された最後の“標的”だった。その主導権を巡るフランス(=幕府系)とイギリス(=薩長)の争いが行われていた....。
フランス公使のロッシュも、イギリスも、自国の貿易政策ー経済支配圏拡大ーとして日本に関わっていた。
圧倒的な力をイギリスがアジア圏でも誇っている中、ちょうどインドの「セポイの乱」(1857)、中国の「太平天国の乱」(1851-64)など、植民地での“てごわい民族運動”に直面・苦労していました。そのため、イギリスが強圧的な植民地戦略を見直せざるを得ないタイミングで、フランスがニッチな島国ニッポンの幕府に親仏派を作り上げるのに成功していた。
横須賀製鉄所や造船所(ドック)の建設でフランスとの結びつきを強化し、恩を売り、最終的には対日貿易を独占できないか?と考えていたのでしょう。
上記の66年600万ドル借款プラン(日仏連合交易組合の案)は「徳川幕府とフランスの商社が共同出資の貿易会社を作る、いわば国家権力の介入による独占的な貿易」をイメージしていたため、やがて英国の猛抗議にあい600万借款が白紙撤回になっていった...。
なお、60年代に蚕の疫病が欧州で発生しており、フランスの絹織産業が苦境になっていたため、日本の生糸を喉から手が出るほど欲しかったのです。日本の蚕種で、養蚕と絹織物産業を再興しよう、日本の生糸貿易の独占を狙っていたんですね。
参考リンク(明治維新と諸外国の関わり)
参考文献:幕末維新を動かした8人の外国人
【近代化に必要なのは「借金」でした。】
これらの色んな個人たち、そして大国の思惑の中で進む日本の近代化。
早期の近代化、欧米列強との連携や国の強化により植民地支配から逃れようとする模索....。
その試みでもう一つ重要な要素。
それが『借金』でした。
フランスの全面支援による世界最先端技術の導入。
それは「単なる機械の輸入」でなく「40人以上の厳選された技術者たちによる技術の移転」でもありました。
横須賀製鉄所の建設に係る費用は
と言われています。
~最終的に177万ドルになった、との説もあり~
借款の総額は諸説あるもののー借款は総額240万ドルのうち100万ドルだった、との説もありー、
『借款なしには
横須賀製鉄所、
世界最高峰の機械工業の技術導入
は不可能だった』のは事実です。
*担保としては生糸、横浜と横須賀製鉄所、との記載書物あり
参考:「戊辰戦争と横須賀製鉄所」
参考:横須賀製鉄所の借款説は誤り
参考:横須賀製鉄所の政府側担保は何か?
【『600万借款の謎』とは?】
薩長同盟ーイギリスの傀儡ーによる倒幕活動によって「フランスからの600万ドル借款が幻に終わった」はずなのだけれども
これが亡霊のように、明治新政府が引き継いだ旧幕府等からの外国債務が600万ドルとされています.....。
長くなってきたので、この詳細は続きに。