なんでできる人とできない人がいるの?——「不平等の平等」について考える
こんにちは、LEOです。
皆さんは何かコンプレックスや羨ましいことはありますか?僕はめちゃくちゃあります。できないことばかりで困ってます…
ここでは、コンプレックスや妬み、さらにはいじめの根底にかかわる「不平等の平等」について書いていこうと思います。
1、「不平等」は「平等」です
いや、まず「不平等」と「平等」なんて反対語じゃん!!なんでこんなことになるの?って感じですよね。ここは大切なことなので説明します。
不平等のでき方はいくつかあります。例えば、日本はアメリカと不平等な条約を結んでいた時期があります。このような法的な不平等以外に能力の不平等もあると思います。僕ができないことを簡単にできる人もいます。でも、他の人より僕がちょっとだけうまくできることもあるかもしれません。
つまり、人には必ず同じく、得意なことと不得意なことがあるはずです。このことが「不平等の平等」です。みんな等しく同じことを同じレベルでできるはずはありません。
2、他人と自分を比較して生まれる「憐み」
「不平等の平等」なんて当たり前じゃん、と思う人もいると思います。
しかし、当たり前にもかかわらず、残酷なことが起こってしまいます。
どこかの偉い先生が言うように、人間は支えながら生きているそうです。裏を返せば、独りで生きている人は人間ではないらしいです。人とかかわりあうことで、他者と自分を比較してしまい、不平等があることに気付いてしまいます。そこで生まれてしますのが、憐みです。
え、そんなの考えたことも無いって?
考えたことも無くても、無意識に感じているはずです。自分より背が低い人を見てしまったとき、テレビで身体を張った芸人を見ているとき等で無意識に「かわいそう」や「うわぁ~」というような気持ちを感じてしまっているはずです。そこには憐みがひそんでいます。
3、憐みによって忘れられる「不平等の平等」
この憐みは無意識に生まれてしまうものであるので、こいつが悪さをしてしまいます。この不平等から生まれた憐みによって、「不平等の平等」を忘れてしまうのです。
僕たちが見ている他者は、ほんの一部分でしかありません。その一部分を集めて、他者の人格を決めつけてしまいます。その決めつけが良い方向なら素晴らしいのですが、そればかりではありません。いつもテレビでバカやっている人を見たら、その人はバカな人と思ってしまいます。もし、その人がテレビで、真面目な番組をしていたら「らしくない~」と思うことでしょう。
この憐みによる決めつけが難しい問題です。
これにより、他者を自分よりも「できない人」と決めつけてしまいます。これがおせっかいやいじめに発展してしまうことがあります。これは他者の「不平等」の部分しか見ておらず、「不平等の平等」が忘れ去られている状況です。
4、なんでできる人とできない人がいるの?(ここだけ読めばOK)
今までの話によると、人間はみな同じく不平等なところがあります。これが「不平等の平等」です。しかし、他者とかかわる人間という生物は、無意識に不平等から生まれる憐みによって、「不平等の平等」を忘れてしまいます。
ここでもう一度タイトルに戻ります。そもそもよくないのは「できる人」と「できない人」と分けてしまうことです。前述の通り、これはその人の一面だけ見て、決めつけているにすぎないのです。それではどうすればいいのか。それは「不平等の平等」を忘れないことです。
他者を見て、決めつけてしまうのは仕方がありません。その人の全部を見ることができるわけではないし、憐みは無意識の出来事であるからです。しかし、決めつけてしまった後で、その人に対する認識を改めることはできます。そこで、「不平等の平等」という考え方が役に立つのではないでしょうか。
したがって、僕の「どうしてできる人とできない人がいるの?」に対する応えは、「人間だから仕方がない」です。でも、ここに「でも、人間だからできないこととできることがあるのは仕方がない。一面で決めつけてはいけない」と長く付け加えます。僕は比べてしまうのは仕方がないが、自分が相手に劣っている部分もしっかりあることを忘れてはならないと考えます。このような考えができれば、解決できる問題もあるのではないでしょうか。
5、おまけ 参考文献『人間不平等起源論』
今回はルソーの『人間不平等起源論』を参考にしています。
ルソーと言えば、『社会契約論』や『エミール』が有名ですが、この本も政治哲学の根本的なところを示している重要な著書です。
この本ではとても面白い内容を分かりやすく書かれています。哲学に興味がある人の入門したいという人や哲学者の本を読んでみたい人にはとてもおススメです。
参考文献
ルソー『人間不平等起源論』中村元訳、光文社古典新訳文庫、2008年