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胸の片隅に引っかかって消えない記憶――小川洋子『人質の朗読会』を読んで

自分の中にしまわれている過去、未来がどうあろうと決して損なわれない過去だ。それらをそっと取り出し、掌で温め、言葉の舟にのせる。その舟が立てる水音に耳を澄ませる。(12-13頁より)

この『人質の朗読会』は、ある国の反政府ゲリラに捕まった8人の人質たちそれぞれによる朗読という形をとっている。その朗読では、それぞれの胸の片隅に引っかかっている記憶が語られている。特別な記憶ではない。日常のちょっとした、けれども忘れられない一幕である。明日がどうなるか分からない中、自身の過去について語る。それが同じ運命に至ってしまった人がどんな人であるかを知るためにはとても重要なことだろうと思う。この朗読会が、人質たちの無くならない不安を少しでもごまかすためには必要であったのだろう。

現実にはこんなことを話す場面は無い。その人を一番分かることができることかもしれないのに。より分かりやすい資格や点数によって、その人を理解した気になる。だから、人質みたいなことを話す機会はない。ただ、僕にも胸の片隅に残っている記憶がある。片隅と言うくらいだから、ほとんど忘れかけており、ふとした時に思い出す。それが今回『人質の朗読会』を読み終えたときだった。僕の胸の片隅に残った記憶、少し気恥しい気もするが、忘れてしまわないように、ここに書き記しておこうと思う。

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あれは僕が中学生か高校生のときの誕生日であった。どっちだったかは忘れてしまったが、それはさほど本質的なところではない。確か受験勉強をしているわけではなかったから、一年生か二年生だったと思う。誕生日は少しだけ特別な日常である。

僕の家では、誕生日の日には、誕生日の人が選んだ少しだけ高価な外食をすることになっていた。それは平日、休日問わない暗黙の取り決めである。その日は平日であった。

僕のまわりはあまり友人の誕生日とかを祝うことがなかったので、僕の誕生日を知っている数少ない友人からだけに祝われた記憶がある。その分ゆっくり今日の夕ご飯の外食の場所を考えることができた。そんなことを考えながら、授業を終え、部活を終え、帰宅した。

帰宅すると、家には誰もいなかった。いつもより早く部活が終わったからかもしれない。気分が浮かれていたこともあり、いつもより早めに帰ってきていたからかもしれない。僕の両親はどちらも教師で、僕の誕生日が夏休み明けということもあり、夏休みの採点やら忙しいからかもしれない。いずれにせよ、僕より両親が遅くに帰ってくることは多々あったので、少し待つことにした。いつでも出かけられる準備をして。

確か僕の次に帰ってきたのは、姉だったと思う。その次に妹、父の順だったと思う。各々部活や習い事などがあって、帰って来る順序が曖昧ではあるが、おそらくこんな順であったはずである。しかし、肝心の母がまだ帰ってこない。僕の家ではご飯は母が決めているので、母が帰ってこないと、晩御飯が始まらない。もう少し待つことにした。時計を見ながら。

しばらく待った。まだ母は帰ってこない。外食するにはもう遅い時間になってしまった。だんだんと僕の誕生日の特別感は冷めていき、手持ち無沙汰になってしまった。まだ帰ってこない。空腹が特別感を追いこしたくらいのときに、母が帰ってきた。
「ごめん、遅くなっちゃって。すぐご飯の準備するね。誕生日だからケーキも買ってきたよ」
そう母は言って、晩御飯の準備を始めた。時間はもう遅い。

その日のご飯は特に覚えていない。おそらく僕の誕生日であったので、僕の好物が並んでいたはずである。おそらくエビフライか唐揚げ。しかも手作りであったので、結構手間がかかる料理であった。しかし、僕はもう自身の誕生日の外食を想定していたので、いつもなら喜んで食べるそれらも、どこか味気ない気がした。

そんな中、料理を食べ終わり、ケーキの時間が来た。母がケーキを持ってくる。そのケーキはマスカットのタルトであった。タルトは嫌いではない、むしろ好きな部類ではあった。ただ、特別感を失っていた僕は拒絶してしまった。

「いらない」

そのひと言でお祝いムードであったリビングに静けさが走った。そのお祝いムードも両親が帰って来るのが遅くなってしまって、申し訳ないという気持ちがあったことから無理に作っているが分かっていた。そんな自分がみじめに思えてきたから、つい僕は言ってしまったのだ。この言葉を言ってはいけないことは分かっていたはずだったのに。

その静けさはどのくらいだっただろうか。よく覚えていない。ただ、僕は顔が挙げられなかった。話し始めたのは父であった。父が「そんなこと言わずに、食べよう。誕生日おめでとう」と言って、ろうそくを差し、火をつけて、僕の方に近づけ、火を吹き消せというような目くばせをしてきた。僕はしぶしぶそれを吹き消し、誕生日のお祝いムードにまた戻ってきた。
「週末、行きたいところに行こう。ケーキも好きなの買ってやる」
と父が言って、その場は収まった。僕もそれに納得し、ケーキを食べたのであった。そして週末に僕が行きたかった場所に行って、僕の誕生日は終わった。


あの時のケーキの味は今でも鮮明に覚えている。
コーティングしてあるジューシーなマスカットとカスタードの味であった。正直いままで食べたケーキの中で一番おいしいものであった。後で聞いた話だが、そのケーキを買った場所は、母の職場と家を挟んで反対側にあるデパートだったらしい。おそらくあの日の料理の材料もそこで買ったのだろう。あの日の夜は遅かった。母は仕事終わりで疲れている中、わざわざ少し遠いデパートまで行き、僕の好みを考え材料を買い、ショーケースの中で唯一残っていた少し高いケーキを買い、帰宅した後も手間がかかる料理をしてくれたのだ。

そんなことはいざ知らず、自分がみじめに思って、自分勝手に拒絶してしまっていたのだ。いや、実は分かっていたのかもしれない。母の罪悪感に付け込んで、都合よくわがままを言ってしまったのかもしれない。あの時の母はどんな顔をしていたのだろうか。

そんな自分が嫌になる。後悔している。あの時何であんなこと言ってしまったのかと。

このことは母に言っていない。言う機会を逃してしまったのもあるが、なんとなく恥ずかしい気持ちがあり、また母が覚えているのか分からないし、思い出させたくもない。

だから、この場を借りて、僕の自己満足かもしれないが、謝りたい。

あの時はごめん。あと、ありがとう。

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書いてみて気付いたが、僕の記憶は人質たちが語る朗読とあまり近しいものではない。曖昧なところも多くあり、いまいち的を得ていない。ただ、僕には一応こういった日常の一幕があったというだけだと思う。自身の胸の片隅に引っかかってはいるが、他の誰かが覚えているかは分からないような経験。そんな経験を思い出させてくれ、文字にする機会を、小川洋子さんは『人質の朗読会』を通して、僕に与えてくれたのかもしれない。



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