シューベルト「魔王」の歌詞解釈を演奏動画と結びつけて考える
シューベルトの「魔王」は、ゲーテの詩に曲をつけたものです。
さすがはゲーテ、世界の文豪。
単なる物語のように見せて、多重な解釈が出来るように書いているようです。
4つの解釈
①魔王実在説
父は残念なことに魔王が実在するという子どもの訴えを本当のこととして受け取ることができず、ついには子どもの生命を魔王によって奪われてしまう。
魔王は、標的を定めれば、どんなに元気でも、その生命を奪い去ることができます。
父は魔王に対して全く無力ですが、対して子は魔王の存在を感じ取る力があります。
これは「トトロは子供にしか見えない」というのと通じるものがあります。この物語を読んだ時、多くの人がこのように解釈するでしょう。
②魔王幻影説
子は怪我か病気が理由でしょうか、死にかけており、そのために幻覚が見え始めています。父は必死で「そうじゃない、それは幻影なんだ」と言い続けます。お父さんは正しかったのです。しかし子の容態は悪化してついに子どもは死んでしまう。
父は子の危篤を知っていたので、必死で馬を走らせていました。
なぜ風の夜にわざわざ馬を走らせる必要があったのか、この解釈ではそこに必然性があります。
③魔王死神説
①と②の中間的な解釈です。
危篤の子供を馬で運ぶ父親。そこに、子に死を与える魔王が近づいてきます。
実はこの世界の死は魔王によってもたらされる、という設定です。死期が近づくと、魔王がやってくるわけです。
もし魔王を撃退できるなら、死はまぬがれることができる、なんて落語の「死神」のようなこともあるでしょうか。
さて、しかし父はどうすることもできず、ついに子に死が与えられてしまう。
父は子の危篤を知っています。しかし魔王は実在しているのです。
ここで、さらに2パターンが考えられます。
A 父は、死をもたらす魔王が実在するということを何も聞いたことがない
B 「死ぬ直前に魔王が見える」という伝承を知ってはいたが、目に見えない魔王の接近(つまり子供の死が近づいてる)という現実を直視できず、子供の「魔王が見える」という言葉を「嘘だ嘘だ」と言い続けている。
という2パターンが考えられます。
④性的虐待説
上記の2つとは違い、この詩を性的虐待の状況の比喩として読むものです。
どんな状況か。
ある身分の高い人(神父や貴族など)が、ある子どもに下心を持って近づいてきています。
子どもはその人の様子に、幼心にも何かおかしい、この人の心に怖い何かがあると感じとり、父親に訴えます。
しかし、父親は権威権力に逆らえないのか、あるいはそんなことがあるはずがないと思いこんでいるのか、子どもの言葉に耳を傾けようとしません。
「何かの間違いじゃないのか、あの方に限ってそんなことがあるはずがないだろう、お前の勘違いだよ」。
再三の訴えにも関わらず、子どもはついに「魂の殺人」を受けてしまいます。
昨今、過去の様々な性的虐待の事実が白日の下に晒されるというニュースが多くあります。教会組織内の告発もありました。
こうしたことはゲーテの時代にも表面化せずともきっと多くあり、ゲーテはそれを暗に告発した、というわけです。
確かに、そういう意味として理解できる人にだけは間違いなく伝わるような、暗号のような書き方がなされているようにも思われます。
ドイツ語の原詩では、魔王は最後に「君が愛しい、君の姿に刺激される。君が望まなくても、力付くだ」と言い、子どもは「今彼が僕に触れている、僕にひどいことをする!」と訴えています。この言葉の選び方がこの説の根拠の一つとなっていると思われます。
歌詞解釈を考えて演奏動画を見てみる
さて、こうした様々な歌詞解釈がある中で、どの解釈をとるか、それはやはり演奏にも影響します。
以下の2つの演奏動画を見比べてみましょう。子どもが登場するシーンに着目してご覧ください。
A フリードリヒ・フィッシャー=ディースカウ
https://youtu.be/5XP5RP6OEJI?si=ZypcUpWYmnxv8Ekl
B キャスリーン・バトル
https://www.youtube.com/watch?v=ZO35Tvpr4Xg
「子」の演奏の違いに着目
子どもの登場するシーン、ずいぶん違いますね。
Aでは、子どもが「何かおかしなものを見つけた、なんだろう、見てよお父さん」、といったふうです。
対してBでは、いきなりなんだか息を呑むような歌い方。かなりしんどそうです。
この違いはなんでしょうか。
先程の解釈にもどって、子どもの初期状態に着目して考えてみましょう。
①では、子どもがはじめて魔王を見た時、まだ何もされていませんから、子どもはまだ元気のはずです。
解釈②では、子どもは幻覚が見えるほどですから、もう息も絶え絶えのはずです。
そう、
Aの演奏は①の解釈、
Bの演奏は②の解釈
であろうと考えるのですが、いかがでしょうか。
違う意味で怖すぎる「魔王」
最後に、この演奏動画をご覧ください。
C 4人で演じる「魔王」
https://youtu.be/Ee138xZT7ug?si=RiWv_A5ihjt7zm_H
これは、4人で演じている珍しい形です。
子どもは実に純粋無垢のように、魔王の本当の怖さを理解しないまま父に訴えています。
魔王は子どもに近づき、誘拐犯のようにそそのかします。
父は本当にポケーッとして最後まで子どもの言葉の意味を理解していません。
語り手は、何か告発するかのようです。
そうです。
これらは④の解釈の表現と見て取ることができそうです。
本当に怖い演奏として感じるのですが、いかがでしょうか。
他の演奏動画も見てみましょう
では、他の演奏動画についても、どの解釈だろうかと考えてみることにしましょう。
例えばこちらの演奏はどの解釈でしょうか?
D ヴァルトラウト・マイアー
https://youtu.be/i1IVQMiKCkM
「父」に着目して解釈
子どもは、はじめなんだかすごく元気そうですね。
ん?でも、お父さんの様子がどうもおかしいです。
はじめからかなり不安そうです。
できるかぎりの作り笑顔で子どもをなだめようとしています。
これはきっと、お父さんは子どもが死にかけていることを知っている。
必死で明るく振る舞おうとしているのではないでしょうか。
すると、子どもは元気なのではない!もうかなり頭がおかしくなっていて、見えるはずのないものを明るく語ってしまっているのではないか。
さらに、父は子の姿にひどく恐れおののいています。
これは、「死の直前に魔王が見える」という伝承を知っていたからではないか。
子の「魔王が見える」という言葉に父はただただ恐れおののいているのではないか…?
私はそんなわけで、ヴァルトラウト・マイアーさんは③ーBの解釈かな、と思うのですが、みなさんはいかがお感じになったでしょうか。